走る男(ショートストーリー)
目覚まし時計のアラームでその男は目を覚ました。
それから幾度も、アラームは鳴っては消されを繰り返した。
横で眠る女が「いい加減にして」という。
男は、背を向けた女を背後から抱きしめた。男は女が着ている上着の裾から手を忍ばせ、女の乳房に触れた。
「んん」
女を悶えさせながら段々と意識を目覚めさせていく。
拗ねていた女が笑顔を向けたことに満足して、ようやく男はベッドから起き上がった。
それからの男の行動は早い。
風呂釜に頭を突っ込むようにして、手に持ったシャワーヘッドからお湯をかけていく。
朝一の無理な体勢は腰に負担がかかるが、男は急いでいるのだ。
濡らした髪を、今度は荒々しくタオルで拭いて、ドライヤーをかけた。
適当に乾いたところで服を着替える。そして上着を着込むと、女には何も告げず、家を飛び出した。
男は走る。走る。
休日の朝早く、こんなに走る男はいない。
走る。
走る。
駅に到着し、やってきた電車に飛び乗った。
数駅乗ると電車を降り、駅構内を足早に進み、駅を出たところでまた走る。
走る。
走る。
女の元を飛び出してからわずか30分で、男は狭いアパートの一室にいた。
男は一部屋しかない部屋の、唯一の家具である机の上にあった本を手に取ると、また家を飛び出し、走った。
走る。
走る。
来た道を同じようにして戻る。
女が眠る街の駅に着き、改札を出たところに設置されたブックポストに持っていた本を入れた。
本がポストに収まったのを確認して、男は深く息を吐いた。
そしてまた走る。走る。
途中のコンビニで女の好きなおでんを買い込む。
大根、しらたき、ちくわぶ、牛すじ。
おでんを片手に、汁をこぼさぬよう、足早に歩く。歩く。
眠る女の家の鍵を開けて、静かに中に入った。リビングのテーブルにおでんを置いて、女の元へ向かった。
まだ女は横を向いて眠っている。
布団に忍び込み、もう一度背後から女を抱きしめた。
「冷たい手。行ってきたの?」
目を覚ました女が言った。
「ちゃんと行ったよ。おでんも買ってきた」
「よろしい」
女は男に体を向けると男の唇にキスをした。
「次から図書館の本は期限内に返しなさい」
女は優しく言った。
「はい」
男は、優しく笑う女の髪を撫でた。
[完]