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不登校の子を持った、長女の私から長女のあなたへ。

先週、自社のインスタライブでママ達とお話をしているときにこんな質問がでた。
「子どもをつい叱ってしまって後悔ばかりしている」
その質問に30分ほど答えていたけど参考になった!という意見が多かったのでどういうことを話したのかここに整理しようと思う。

繊細で優しい長女と私の話です。



私が子どもたちを叱らなくなってから2年近く経つ。


「そんなに怒らないでどうやってやっていけるんですか?」と聞かれるが、怒る要素を排除すると本当に驚くほど怒る理由がない。


「怒る必要がないくらい良い子なんじゃないですか?」
とも聞かれるけどそういうわけではない。
ほっておいたらきっといつまでも夜更かしをしているしゲームやYouTubeを見ているだろう。

良い子じゃなかったから、怒らなくなったのだ。
親の期待に応えるような良い子じゃなかったから。

変えるべきは子どもじゃなくて親の方だった。
と気づいた私の話を良かったら聞いてください。



思えば私は、自分の親からは条件付けでの評価で育ってきた。

それは大人になってからも続いた。
私は3人兄弟の一番上だったが、弟より妹より自分が劣っていると25歳くらいまでは思っていたし、何か誇れるものが欲しくて、保育士の資格を取ったくらいだ。それまで自分が自慢できるものなんて何一つなかった。
学校でも会社でも落ちこぼれと言われ、自分がやっと生きる役割を持てたと思えたのは22で子どもを産んだ時だ。これで「母親」にはなれたと思った。

初めての子どもは女の子だった。
自分の人生観をまるごとひっくり返すほど可愛かったしこんな世界があったのかと衝撃を受けた。
とにかく、自分が思った通りの子育てをしたかったし、できると思っていた。
育児書を何冊も読んで自分の子が他の子よりもおしゃべりが早かったり、歩くのが早かったりすると自分が良い評価を受けたような気になった。
その時ハマった育児法の講師を6年続け、私みたいな子育てをしたら生徒さんは皆おしゃべりな子供に育つしコミュニケーション上手になってイヤイヤ期も乗り越えられる、だから私の教室に通ったら絶対に損はさせないと豪語していた。
2歳そこそこの子育てしかしてない、そもそも自分自身も確立できてない僅か23歳の小娘になにがわかるんだという感じである。
とりあえずあの頃に戻れるなら自意識が過剰に育ちすぎた痛い自分をぶん殴りたいし、昔の生徒さんに全力で謝りたい。
あの頃の勘違い甚だしい私を優しく見守ってくれたママさんたち、ありがとうございました。

結論から言うと、長女は私が思うような子どもに全く育たなかった。

あれほど上手だったおしゃべりは小学校に上がって年齢と共に恥ずかしさが育ち、外に出るとひとことも喋らなくなり、思春期が早かったこともあって小学3年生くらいから挨拶すら出来ない子になった。
3歳から習わせていたピアノもバレエも、その頃には全部やめた。

実は長女は4年前から学校に行っていない。
私がカミングアウトできるようになったのも、つい最近のことだ。
それまで、不登校の子の親であることを悟られたくなかった。
恥ずかしいことだと思っていた。
完璧主義で人の目を気にする私は、自分の生きる目的であり唯一誇れていた子育てで失敗したと認めたくなかったのだ。
そんな自分を変えてくれたのは紛れもなくとうの本人である娘だ。
一生分怒ったし何度も泣いたし、娘も泣かせた。
怒鳴っても引きずっても脅しても娘は学校に行かなかった。
根負けして、私は失敗を認め「不登校の娘を持つ親の自分」を受け入れたのだ。(ここではあえて失敗と言わせてほしい)
そして、この「娘を許し、自分を許す」プロセスが今では宝物だと思っている。


そもそも、私も不登校児だった。

決まった時間に決まったことをこなさないといけない、人と違うことをいうと否定される(中学生の頃、国語の先生に自分だけクラスの全員と違う意見だったことを咎められたことがある)学校という場所があまり好きではなかった。
学級委員を3年続けたりそれなりに学校生活をもちろん楽しんでいたけど、小学校高学年から高校生まで、行かなかった期間がどの時期も一定数あった。
本が大好きで、休み時間には図書館で本を読み耽るような子どもだった。
それが協調性がないと捉えられ、友達がいなかった時期も多かった。
そんな自分の幼少期と比べたら、娘の方が学校の友達はいるのではるかにすごいと思う。
だから娘のことを怒る資格は私にはないのだ。

娘が最初に「行きたくない」と言った時に本当は言ったのだ。
「いいんじゃない、行かなくて。学校じゃなくても楽しいことはいっぱいあるよ」
でも、私の意見は聞き入れてもらえなかった。
学校に。両親に。そして夫に。
その時から私も娘もきっとおかしくなった。


娘が不登校になってから、毎日自分を責めていた。

ちょうど会社を立ち上げて3年目、会社にかかりきりにならなかったらすぐに倒れてしまいそうな時期だった。
娘が大変な時期に寄り添えなかった。
「母親が仕事ばかりしているから子どもがそんな風になるんだ」
といろんな人に言われた。夫に言われたのが一番きつかった。
夫の母親に言われた時は、それから義理の実家と私だけ縁を切った。

今でも思う。
じゃあ、私はどうすればよかったの?
私が手を離したら、会社もスタッフも守りきれない状況で。

だから娘に頼ってしまったのだ。娘に、一般的な良い子を押しつけた。
朝、学校から登校の催促の電話がかかってくるたび、娘を怒鳴りつけ、引きずってでも学校に連れて行った。
職場に着いた途端、学校から呼び出され
「娘さんが今日も来てません」
と言われて、確かに送ったのに・・・と慌てて1時間かけて自宅に戻ると、マンションの階段でうずくまっている娘を見つける。多い日は毎日だ。
呼び出しがかかるたびに、スタッフには「まただ〜。行ってくるね!」と笑顔で会社を出て、電車では泣きながら自宅へ戻った。
仕事と育児の両立をちゃんとしたかった。
だから、外では不登校の娘がいるなんて知られたら、私がダメな母親だということがバレてしまうと思った。

ゲームや漫画をベランダに投げたり、捨てたりもした。
私がちゃんとしてないと、私が怒られる。
自分のエゴで娘を一番守ってあげないといけない私が一番娘を傷つけていたと思う。本当にごめんなさい。謝っても、謝りきれない。

そんな生活を2年ほど続けた。


転機は次女が生まれたことだった。

次女の世話を私と娘でする。娘は第二の母親のように次女の世話をしてくれ、本当に頼りになった。
そうして2年前に、私と娘の長い確執が終わった。(と思う)
私を睨みつけていた娘の表情が柔らかくなり、顔を合わせたら喧嘩ばかりしていた私たちが、次女を囲んで「可愛いね」と笑い合っている。

当時の職場のスタッフにも随分助けられた。
たまに娘を職場に連れて行くことがあったのだが、無口で愛想の悪い娘を「可愛い可愛い」と言ってしつこく絡んでくれたり、程よい距離感で一緒にいてくれた。
娘はスタッフの机の下に潜り込んで、いつも何かをしていた。
娘を愛してくれる大人が必要だった。今ならそう思う。
他人の子どもならわかるのに、自分の子どもになるとわからなくなるのはなんでだろう。


娘は中学生になり、中学は行くと言っていたけど結局行けなかった。

でも、自分で決めたフリースクールに通っている。
空いた時間は大体絵を描いているか、本を読んでいる。
漫画だったりゲームをしていることもあるけど、今は小説が好きみたい。
私の子どもの頃とそっくりで、血は争えないなと笑ってしまう。
学校に行くというそんな簡単(普通の人には)なこともできなかった私が、私にそっくりな娘にそれ以上を求めてもできる訳がなかったのだ。

娘を怒らなくなり、ついでに息子(もいる。実は。彼はほっといても学校に行くし宿題もやる真面目な少年である)も怒らなくなると、今まで世間の枠にはめていた子どもの本当にいいところが見えてくる。

娘は、すごく心が優しい子だ。
人の悪口は言わないし、細かいところによく気がついて、助けてくれる。
私が妊婦の時は電車で真っ先に座ろうとする息子を制して、私に席を譲ってくれた。今でもそれは変わらない。絶対に自分は最後まで座らないのだ。
私の荷物が多いとさりげなく「持とうか?」と聞いてくれるし、弟も妹にも、なんならスタッフの子にも面倒見がよく、あまり話さないにも関わらず小さい子から随分と慕われている。
学校に行くことにフォーカスし続けていたら、怒り続けていたら、娘の良いところに気づかなかった。

私は最近、中学生の頃の自分を思い出し、同じ目線で中学生の娘と映画に行ったり、ドラマを見たり、本を貸しあって感想を言い合ったりする。
私が中学生の頃に戻ったなら、間違いなく娘は尊敬できる大好きな友達になったと思う。
けして社交的な方ではないし、おしゃべりな子ではないけど、一歩後ろから冷静に周りを良く見ている。かといって、人を見下しているわけでもない。
面倒見が良くて優しくて、さりげなく手を貸してくれるいい子だ。

私も、私自身を見てくれる場所を見つけた。

母でもなく妻でもない、経営者の私でもない、全然別のコミュニティで私自身が楽にいられる場所だ

同じように不登校の親御さんと仲良くなる機会が増えた。
不思議なことに、私と同じように経営者の方が多かった。
そこでやっと自分自身を認めてくれる人、同じように辛さを分かち合える人を見つけ、いろんな生き方があっていいんだと思えた。
学校に行っていないだけで、生きる強さをちゃんと持っていて、自分自身でいろんなことを決める子どもたちと仲良くなった。
人から決められたレールを進まないという選択をした子は、その分自分の選択に責任を負う。今日は何をして過ごすか?これからどうするのか?
意思決定を何度も繰り返す。
そんな子どもたちの中に入って私も娘も変わったと思う。

娘には、あなたは人と違う道を歩んでいるから、この時間を有意義に使ってね。自分で決めるという事は、自分で責任を持つという事だよ。
と伝えた。

不登校になった娘を受け入れてから、私の行動が変わった。

行けるときは出張に連れていくようにした。私が行っている会計の研修や、子どもだけのキャンプにも毎年行っている。学校には行けないが、そういう場所なら娘は一人でもどんどん行ける。
出張では広島の平和記念資料館や沖縄のひめゆりの塔に連れて行き、教科書では体験できない経験をさせ、仕事をしている自分の姿を見せている。

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「あなたは不登校で良かったね、だってこうして連れて行けるから」と言えるまでに何年もかかった。
今ではもうすぐ定年を迎える私の母も「〇〇は学校に行ってないから一緒にいろんなところに行けるね」と言っている。
因みに母は小学校の教師である。
これを読んだ方の中には「そんな風に行かないことを肯定してはいけない、甘やかしだ」と思われるかもしれない。
でも、今は長い長い娘との冷却期間を必死に取り戻し、今まで注げなかった愛情を注いでいる時期だから大目に見てくれたら嬉しい。



私は長女だ。

だから第一子が女の子と聞いたとき、実はひそかに怖かった。
実母との確執があったから、娘を同じように愛せなくなってしまうことが怖かった。
出産直後それは幻想だと思ったが、娘が成長するにつれ恐れていたことが現実になった。

息子は第二子だし要領がよく、素直で甘えん坊だから小学二年生になった今も抱っこしたりスキンシップが出来る。
第三子である次女はまだ赤ちゃんなのでなおさら素直に好き好きと言える。
長女だけ、小学生になってから強制的に大人にさせてしまったと今は思う。



唯一、暗黒時代の中でも私が心がけていたことがある。


娘の写真を撮ること。
お出かけの時には手を繋ぐこと。

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前者は私が家族にしてもらっていたことで、後者は私が母にしてもらいたかったことだ。
正直、娘が荒れていた時期は息子も小さかったし会社も忙しかったしで実をいうと記憶が飛んでいる。
それでもそのころの写真を見れば娘が映っている。
そして今でも出かけるときには手を繋げるときには必ず繋ぐ。
娘が私の差し出した手を拒んだり払いのけたことは今の一度もない。
娘はいつも私の愛情をちゃんと受け取ってくれていた。

写真を仕事にしていて良かったと思った。

そして、私も娘と同じように、やっと母の愛をきちんと受け取れた、と思ったのは実母が娘の不登校を受け入れた時だったのではないか、とも思う。

同じように、私が不登校だった時、同じように母に言われたかったのかな。
「学校行かなくてもいいよ、ここがあなたの場所だよ」
って言われたかったのかもしれないな。
娘を通じて、当時の母の気持ちを思う。


娘が学校に行かなくなったことで、私の心の器は確実に広くなった。


人生は思い通りにいかないことを知った。
子育ての成功も失敗も、良い子もダメな子も、全部人からのジャッジでしかないと知った。
言葉は大事だけど、言葉にならない感情もそれ以上に大事だという事を知った。
自分の心を守るために、自分を責める人や場所から逃げることを知った。
どんな子どもであっても、その子を信じて任せるということはどういうことかを知った。
駄目だと思っている自分を受け入れることを知った。
そんな自分を自分で許した。

それは、今を生きていくのに大事なことだよ。
と、いま不登校で悩んでいる人に伝えたい。
そして大事なことを気付かせてくれた娘に感謝している。



人生100年時代と言われるいまの時代で、大事なこと

自分が幸せだと思うことを見つけて、大切にすること
心を守りながら生きる方法を身につけること

欲を言えば、自分が愛し、愛してくれる人を見つけられたらもっといい。

親が出来ることは、子どもがその術を身につけ、親がいなくなっても生きていけるように、精一杯の愛情の貯金をしておくことだけだ。
だから怒らなくなった。
人を傷つけたり自分を傷つけたりすること以外は、怒る時間を精一杯愛する時間と決めた。
2年間、伝えられなかった分を取り戻さないといけないし、娘はあと5年もしたらきっと巣立っていく。残された時間は本当に短い。

娘を大事にすることは、当時の私の心を大事にすることと同じだ。

いま、悩んでいるママがいたら、まずは自分自身を一番に労わって、愛してあげてほしい。
子どもを愛したいけど愛せない原因は、自分自身が愛してもらった経験がない、もしくは受け取れていないからなのではないかと思う。

私は、自分が無償の愛を受け取ったと実感してから、娘に愛を注げるようになった。

子どもを叱ってしまう、愛せないと悩むのは自分のせいじゃない。
そう言ってくる人からは全力で逃げてもいい。

言葉の暴力がない優しい世界に子どもと一緒に逃げてほしい。
そう思う。

娘は今でもあまり喋らないし社交的な子ではないけど、たぶん3人の中で一番私に似ていて一番可愛い。
娘を大事にすることは、当時の私の心を大事にすることと同じなのだ。
私もまだ娘には素直になれなくて直接は言えないから、このnoteを残しておくことで娘へのラブレターとしたいと思う。

愛し方が不器用な私から、愛され方が不器用な娘へ。

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