読書ノート『現代思想2020年1月号』(青土社)
自分の脳内の整理のために始めた執筆なので読者のことはあまり考えていなかったのですが、前回のノートはあまりにも不親切で、読んでくれた友人にも「これを読むくらいなら原本を読んでほしい」と頼むレベルでした。今回はその反省を踏まえて、一部分を、要約と紹介の中間くらいで、議論の大筋を自分の言葉で追うような形で書いていきます。
今回は本屋で衝動買いしたこの本の中から、人に紹介できる程度に理解できて面白いと感じたトピックを3つ紹介します。太字部分は引用です。
1. 悲しいメロディの「悲しい」って何?
まず紹介するのは、76ページからの
「音楽はどのような情動を喚起するのか?」源河 亨
です。
この文章では音楽論の導入として、私たちがあるメロディを対象に「楽しいメロディ」や「悲しいメロディ」と表現するメカニズムは何か、ということを、「情動主義」と「認知主義」という二つの立場から解説しています。
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「悲しいメロディとは、聴き手を悲しい気持ちにさせるメロディだ」という立場が情動主義、「悲しいメロディとは、聴き手がその中に『悲しさ』を特徴として認知するようなメロディだ」という立場が認知主義です。この二つのうち、認知主義の方が説得的だと考えられており、情動主義は見込みがないものとされています。これはなぜでしょうか。
考察の前に論点を絞り込みます。
まず、「悲しいメロディ」の「悲しい」は文字通りの意味で使われていません。メロディは感情を持つ主体ではないからです。しかし私たちは、こうした形容詞(情動用語と呼びます)をメロディに当てはめたくなります。よって、メロディの持つどんな要素が、私たちをそうさせるのかというのが論点になります。
次に、上記の「要素」についても整理します。音楽への情動用語の適用を考える時、この要素の中には歌詞や個人的な思い出、社会的なイメージも含まれえますが、こうしたものを除いた「純粋な音の配列」にも情動用語は適用されるので、ここでは「純粋な音の配列」について議論します。
論点が整理されたところで、「情動用語」の「情動」についてみていきます。ある一面としての情動とは、自分の置かれた状況が自分にとってどんな意味を持っているか、またどんな影響を与えそうなのかを評価する役割を果たすものです。そしてこの点で言えば、「悲しい」という情動は、「〈自分の大切なものの喪失〉」という状況を表すはずなのです。しかし、「悲しいメロディ」を聞いている時私たちは何も喪失していない。ここに、「悲しいメロディとは、聴き手を悲しい気持ちにさせるメロディだ」という情動主義の矛盾があります。
では対立候補だった認知主義はどのように説明されるのでしょうか。認知主義の立場をもう一度書くと、「悲しいメロディとは、聴き手がその中に『悲しさ』を特徴として認知するようなメロディだ」というものです。
この「聴き手がその中に『悲しさ』を特徴として認知する」ということは、あることに似たものとして説明されます。それは、会話において、話し手がその話し方の中に情動を表出させ、聞き手がそれを知覚して相手の情動を認知することです。(のちに私たちが「悲しいメロディ」と呼ぶ)あるメロディが小さな音で抑揚も少ないように、悲しい人の話し方が小さな声で抑揚も少ないため、私たちはそのメロディに「悲しい」という情動用語を当てはめたくなるのです。
そしてこの例では、メロディと会話どちらにおいても、聞き手が悲しい気持ちになる必然性はないのです。
さらに言えば、悲しいメロディだったとしても、それが音楽として素晴らしいものであれば私たちは感動や満足感、楽しいといったポジティブな感情を覚えますし、逆もまた然りだと言えます。そしてだからこそ、私たちは悲しいメロディも時に好き好んで聞こうとするのです。
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考察の大筋は以上の通りです。こうもあっさりとまとめると情動主義を(その一部でも)擁護しようとする意見が出そうですが、そうした方針の分析も本文ではされていますので気になった方は是非読んでみてください。
私の日常的な感覚でも情動主義の方がなじみやすかったのですが、思いつく反論は悉く分析されていました。
2. 形而上学の可能性
次は131ページからの
「私たちが形而上学を行うとき、私たちは何を行うことができるのか?」エイミー・L・トマソン/松井隆明訳
です。
この文章では、形而上学は真理を発見しうるのだという(私のような人間が一番ワクワクするような)形而上学像が疑問視され、その役割を限定的なものにする「デフレ的な立場」が広がっているという現状に基づき、「デフレ的な立場」も納得させるような形でその役割と可能性を拡張することを目指しています。
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形而上学が、真理とも呼ばれるような、世界の深い事実の発見に従事していると考えることは、形而上学者には人気のある考え方(「重量級」の形而上学と呼びます)ですが、多くの問題を抱えています。
形而上学には、経験に基づく科学のように確固とした方法論・問題解決の基準がありません。実績としても、「世界の深い事実」は科学、とりわけ物理学の方が明らかにしているでしょう。そして形而上学は、議論の決着のつけ方さえ決まっていませんから、数千年かけても様々な見解の相違を孕んでいます。
そうした背景から「デフレ的な立場」が広がっています。これは、形而上学の役割を主に概念分析に限定する考え方です。(概念分析とは、概念の働きや他との関連、そしてそれらを使う上でのルールを分析し決定することです。)しかし形而上学にできることは本当にこうした「記述的な概念的研究」だけなのでしょうか。
ここでは、「単に記述的な概念的研究だけでなく、規範的な概念的研究も行う」「より広い概念主義的モデル」を提唱します。
その前に、「重量級」の形而上学に比べて、概念主義的アプローチはどのような点で優れているのかを確認します。
形而上学の方法の一つである思考実験は、これまで科学実験ほどの説得力を持ちえませんでしたが、このアプローチを採用することで探究の対象が明確に「私たちの概念を支配するルール」になるので思考実験による探究がもっともらしくなります。
さらに言えば、形而上学の守備範囲をこのように狭めることで、「私たちは概念能力を使用することで、形而上学において知識を獲得するのだ」と主張することができるので、認識論が非常に明瞭に説明されることにもなります。
また筆者の別の論文で詳細に論じられているところによると、形而上学の様相的な問い(命題の真偽、可と不可、必然と偶然に関わるような問い)と存在に関する問いの多くは、概念分析によって、もしくはそれと科学のような経験的研究の組み合わせで解決できます。
そして最後に、このアプローチは、形而上学が自然科学と競合することを避け、分業を可能にする点でも優れているのです。
しかしこの概念主義的アプローチのうちの「記述的な概念的研究」は、多くの形而上学者が目指すような深さを備えておらず、また「辞書編纂とどこが違うのか」という批判を受けてしまいます。そこで「規範的な概念的研究」を提案するのです。これは、概念の”実際の働き”の分析だけでなく、ある目的のためにどんな定義を採用する”べき”かを決定することができるというもので、しかも「記述的な概念的研究」のメリットを損なわずに可能性を拡張したものです。
この「規範的な概念的研究」の観点からみると、これまで行われてきた形而上学的議論の多くは(「デイヴィット・プランケットとティム・サンデルが『メタ言語的交渉』と呼んできたもの」のような)、ある語があるものに使われるべきかどうかの見解を語用論的に伝達し、そう使われるべきかどうか交渉するという営為であるとみなせます。
具体的には、私たちは「人」という語の概念の規範的研究を、「『人』という語はどのように使われているか、使われるべきかを議論することによってではなく、人とは何であるかを議論することによって行うことができる」。
つまり、記述的な概念的研究が「人という概念はこんな風に使われていて他の概念とはこう連関する」という議論に留まるのに対して、規範的な概念的研究は、哲学の言葉を使い、「人とはこういうものである」と形而上学的な議論を展開することで、「人という概念はこう使われる”べき”だろう」という交渉を世界に向けて発信することができるのです。
最後に、筆者はこの文章自体を「形而上学」という語の規範的な概念的研究だと捉え、形而上学が規範的な概念的研究を含む学問である”べき”プラグマティックな利点を挙げます。
形而上学という概念の機能は、「ある歴史的な仕事の伝統を選び出し、それを人間の知識に貢献可能なひとつの独自の探究領域とする」ことであるため、
・歴史上行われたこれまでの形而上学的な議論の仕方との連続性を持っている
・科学と競合しないだけでなく、自然科学、心理学、言語学とは明確に異なるうえに人類にとって重要な「規範的な」研究である
・解決が困難に見える見解の相違が形而上学にはあるということを、規範的な見解の相違と同じものとしてうまく説明できる
という利点があるということです。
このことによって、形而上学的な論争そのものが解決されるわけではありませんが、「形而上学的な論争はなぜこれほど根強いのか、なぜこれほど解決したり処理したりするのが困難に見えるのか、にもかかわらずなぜやってみる価値があるかもしれないのか、を説明」できるようになるのです。
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以上のように、規範的な概念的研究が提案されます。これを読んだ私の中で、「形而上学」像は変わり、そしてそれは救われました。またこの観点から考えると、形而上学、ひいては哲学者というものが現代において何を考えているかの一端を理解することができて、視界が開けたような気分です。
本文ではここより多くの具体例が、現代の規範的問題も含めて提示されていたので余計にそう感じたのだと思います。もちろん議論もより丁寧です。
3. ポストトゥルースの世界でどう生きるか
次は150ページからの
「ポストトゥルース試論 2020 ver.1.0」大橋完太郎
です。
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”post-truth”、真実以後という言葉は、2016年11月にオックスフォード英語辞典によって「今年の単語」に選出されて以来有名になりました。同辞典で「公論を形成する際、客観的な事実よりも情動や個人的な信に訴えかけることのほうが影響力を持つような状況を述べるないしは示す」と定義されるこの言葉が表す状況は、真理や真実の価値を自らの権力基盤としてきた知識人層を脅かすものです。「思想や哲学を無効化しかねない」この状況ですが、その一方で、この状況を招いたのは哲学それ自身のうちのポストモダン哲学(後述)であろうという批判もあります。
この文章では、ポストトゥルースに似た状況は哲学の歴史上何度も現れてきたことを示しながら、その構造を分析し、ポストモダン哲学とも絡めて対応策を提案します。
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※ポストモダン哲学とは
ポストモダン哲学は、近代において「正しさ」や「真実/真理」に絶対的な価値と権威の基盤を置いていたこと(マルクス主義、ナショナリズムなど)を批判し、「差異と多様性」の思想からあらゆる価値を相対化する思想。その名の通り近代(モダン)という一つの時代に終わりを告げて相対化した思想の潮流であるため、古典的な「正しさ」という価値を下落させたと批判されている。
参考:シリーズ<現在>への問い・「創造力の行方」「毎日新聞」2005年10月3日(月)掲載 最新講演・インタビュー http://www.phenomenology-japan.com/mainichi051003.html (2020年3月11日閲覧)
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哲学史上で問題とされたポストトゥルース的な状況の例の一つ目として、プラトンの『国家』に、有名な「洞窟の比喩」というものがあります。これは、誤ったものを真実と思い込んでいる洞窟の中の囚人が外に出て真理を獲得する過程と、彼が洞窟に戻って他の囚人を解放しようとする過程が描かれたものです。
後者の過程において、真理を獲得した彼は暗闇に不慣れになったために世界がよく見えなくなっており、外の世界で見た真実を語っても、洞窟から出たことがない囚人たちに見当違いだと笑われ、滑稽なものにされてしまいます。さらには、囚人たちは彼が外の世界に出たせいで目を悪くしたと考え、そんな「危険な場所へ連れ出そうとする者は殺しても構わないという主張さえ起こ」ってしまいます。こうして、真理を語る者はポストトゥルース的な状況で滑稽な笑いの対象となったのです。
さて、この「真理を語ること」について、ポストモダン哲学者と言われるフーコーは、「真理を語ること」を意味する古代ギリシア語の「パレーシア」という語を軸にして考察を残しました。「フーコーの考察は、古代において真理がひとつの重要な問題系をなしていたことを示している」。
フーコーが分類したうちの一つである政治的パレーシアは、自分の持っている真実を、民衆に反対してでも、勇気を持って語ることでした。しかし、これをすることはギリシアにおいて命さえ脅かしかねない危険なことだったとフーコーは言います。民衆に対しても、「誰彼かまわず万人に与えられた自由、好き勝手なことをすべて語る危険な自由」が与えられており、これは民主制自体を成立させるパレーシアではあるものの、これによって民衆は自分たちの欲望を満たしてくれる愚劣な者のみを発言者として認め、為政者としたのです。
フーコーはさらに、プラトンに約40年遅れて生まれたギリシアの政治家デモステネスもこうした民主制の危機を嘆いていたということを例示しました。デモステネスは各人が自分の思いを語る権利を保障する民主制を否定するのではなく、その権利が無制限に分配されており、かつ民衆がその豊かな生活を妨げられたくないがために公共的な国政への助言をかき消してしまうことを危機の原因としました。ここから、ポストトゥルース的な状況は通時性を持っているということができます。
そして、やはりこうした事態、「個人的な欲望と快楽を保守せんとする『民意』がその声を増殖させ、それによって『真理/真実』を見えなくさせるこの状況」は現代でよくみられるものです。しかしそれだけでなく、現状はより複雑化していると言えます。
現代で真実を隠してしまうものとして、「テキトー(bullshit)」という概念があります。これは、話者が意図的に真実と異なることを言う嘘に対して、「嘘未満」とされる、真実であると思わせるような、それでいて真偽とは別の次元にその目的を持つ、不正確な見せかけの伝達のことです。こうした「テキトー」な情報が氾濫している世界においては、「広告を中心としたイメージやスペクタクルによって情動のみを昂進させ、真理へとつながる批判的な道を閉ざしてしまう」のです。
そして「デモクラシー及び意見を表明する自由と結びついた個人主義の概念」はこうした事態の基盤となっているだけでなく、私たちに、「あらゆることについて意見をもつとともに、自分の商品価値を測定する」よう求めます。
ここで、この現代にフーコーの哲学を取り入れることを試みます。フーコーはパレーシアの議論をする中で、ソクラテスを参照して「自己への配慮」を主要な概念として提起しています。「自分自身を率直に説明する自己へのパレーシア」を実践することで、生存の美学化を目指したのです。この、ある人の倫理的な生き方を一つの美的なものに昇華させることは、自分の美的な問題に閉じこもることではないのだと言います。曰く、「自分自身に配慮し、自分の体に配慮することによって、他者が自分に対して行う配慮を最小限に抑えることができる。自己への配慮は同時に他者への配慮でもあるのだ」。
筆者はこのフーコーの思想を、ポストトゥルース的な状況の中で、〈真なることを語ること〉によって構成された、生存の美学を目指すもう一つの生き方だと捉えました。
そして最後に「洞窟の比喩」に立ち返り、フーコーが、真理を得た囚人が笑われながらも他の囚人を啓蒙しようとしたことを「教師としての勇気(パレーシア)がそうさせた」と解釈したことから、この現代にも啓蒙があるとすれば、他者に笑われながらも思考をし続けることにより可能になるパフォーマンスとそうした「生存のスタイル」にあるのだと主張します。
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要約は以上になります。私としては、ポストモダン哲学が原因だとも批判されるポストトゥルース的な状況を、古代ギリシアの時代から原型を持つものだとしたうえで、ポストモダン哲学者フーコーの古代ギリシアを見つめる思想の地平から対応策を見出したという点で面白い議論だと思いました。
ですが、政治のパレーシアと明確に区別された「自己への配慮」という対応策は、個々が、もしくは自己への配慮を実践する人の周囲の人間がポストトゥルース的な状況に振り回されないための役には立つように思われるものの、啓蒙の可能性を残しているとまで言えるかは疑問に感じました。
さらに言えば、かつてはこうした個人の生存のスタイルという対応策でもよかったかもしれませんが、複雑化し、bullshitも含めて悪化している現状ではこの構造自体を変革させる方向で議論をすべきだと思います。
悪しき構造を把握しつつも、その構造の中に満足のいく生き方を見出すという対応策は、結果としてその構造をより壊れにくくする行為であり、構造の自衛システムの一部に自ら進んでなっているように思われるのです。
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以上になります。読んでいただきありがとうございました。
追記:要約部分で「ですます調」使うの、脳がバグるので次からやめます。