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愉快な生き方

洗濯物を干してたら、「ルートは人それぞれだけど、たどり着く場所は同じ」という感じのメッセージが降ってきた。

最近寝る前にカードゲームをしている。UNOかレシピというゲーム。レシピは各々に割り当てられたメニューの具材を集めて早く揃った人が勝ち。これができるならドンジャラもできるのでは?という話になりドンジャラを買ったら、早速娘も大ハマり。最初は高得点ばかり狙って負けが続いた娘も、昨夜負けて泣いてから、今日は朝から4回戦全勝して晴々とした顔をしていた。

ちいかわドンジャラなので牌がやたらと可愛らしい
娘作の対戦表。勝つとシールを貼ってくれる。母全敗。

娘は昨晩から咳が出て扁桃腺も腫れ始め、私もバイオリズム的に低調な時期で、今日は学校は休みにして2人でのんびり過ごすことにした。何かしようかなぁと思っても頭がぼーっとして考えがまとまらない。

最近読んだ「ブッダが教える愉快な生き方」がとても面白かった。これまでも似たような話は読んでいたけれど、今回はスルーっと頭に入り、心に響くメッセージも多くて今のタイミングで読んでよかった。シッダールタ、カピラヴァストゥ、スッドーダナ、アシタ仙人などの人名や地名に、手塚治虫のブッダを懐かしく思い出しながら読んだ。

吾我というものは現実に対して、多いとか少ないとか、長いとか短いとか、いつもなんらかの注文をつけ、ああだこうだと不平不満や愚痴をこぼし続けています。なぜなら、それが吾我の仕事だからです。そして、常に問題を見つけ出しては、それを何とかするためにドゥーイング・モードを起動させようとします。
それをいちいち真に受けていては愉快に生きていくことなどできません。生きていること自体が無条件に愉しいという「愉快さ」は、ビーイング・モードに属しているからです。
もし、吾我のままの私がドゥーイング・モードで一生懸命に修行をすれば、吾我をますます肥大させることになってしまいます。でき上がるのはさらに面の皮が厚くなった吾我でしかありません。ですから、愉快な人生につながるような仏道の学びは、吾我を離れるという正しい方向に向かって行われなければならないのです。
吾我を離れるとは、吾我という防衛装置を解除していくことを意味しています。自と他を区別している厚い防護壁に風穴を開けて風通しをよくし、外部との生き生きしたつながりや交流を取り戻すということです。

藤田一照著「ブッダが教える愉快な生き方」

ここで言われている吾我というのは自我のような事だけれど、ほんとにそうだなだとしみじみしながら読んだ。「でき上がるのはさらに面の皮が厚くなった吾我」!

自我の中身である思考や感情は、いろいろな条件によって一時的に起こり、去っていく出来事にしか過ぎません。しかし、私たちには「自我」と「自己」を同一視して取り違えてしまう癖があります。本当は、自己の中に思考や感情が起きているのに、あたかも思考や感情の中に自己がいるかのように感じてしまうのです。
これは、思考や感情というお酒を飲みすぎて酔っ払い、前後不覚に陥ってしまったようなものです。その酩酊の度合いが深まってくると、もはや自分が酔っていることもわからなくなってしまいます。酔った状態では、何を学んでも少しも身にならないことはよくおわかりですね。吾我というのはこういう状態を指す言葉なのです。
ブッダはこの世を去る時に、「弟子たちよ、不放逸にして修行を完成させなさい」という言葉を残しました。放逸というのは、いま述べた酩酊状態のことです。つまり、不放逸とは素面しらふの状態、酔いが覚めた状態ということになります。修行というのは、素面の状態で行わなければならないのです。

藤田一照著「ブッダが教える愉快な生き方」

こちらもごもっともでございます。まだまだ印象に残ったことがあるけれど、引用する気力が尽きました。

週末に娘の学校のイベントで急遽鍵盤ハーモニカをステージで弾くことになり、昨日曲をイヤホンで聴きながら家で少し弾いてみた。ほんの少し弾くだけでも、やっぱり音楽って楽しいなと思った。あと吹くのってなんか新鮮だなと。

昨日高橋源一郎さんのラジオの谷川俊太郎さんの追悼特集を聴いて、その中で紹介された「詩人の墓」という詩が印象に残った。

「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って!」

谷川俊太郎「詩人の墓」

「いまここだけにぼくは生きている」男は言った
「昨日も明日もぼくにはないんだ
この世は豊かすぎるから美しすぎるから
何もないところをぼくは夢見る」

谷川俊太郎「詩人の墓」

この辺りが胸に響いた。

今日も一日皆さんお疲れ様です。
風邪が流行っているようなので、どうかご自愛ください。

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