2024年に気に入った文学作品リスト

正直に言うと、今年は文学専門家として驚かされるような本はほとんどなかった。しかし、その中でも心を打たれ、「これぞ良い文章だ」と感じた本は何冊かあった。

実は、私は時々、自分が認知障害(読字障害)を抱えているのではないかと思うほど、本を読むのが遅い。しかし、今年は自分の予想を超えてたくさんの本を積読し、少しでも前進できたことに嬉しさを感じている。

モスクワ大学を卒業してからは、自由な時間と独学の機会が得られ、文学の授業で読まされる作品ではなく、自分で選んで楽しめる本を読む時間が増えた。それによって、読書の対象として自然に多様なジャンルに手を出すことができた。

では、前書きはここまでにして、印象に残った作品のリストに移りたいと思う。紹介する順番は、実際に読んだ順番に沿っている。

1)『デューン砂の惑星』



初出:
1965年
著者:フランク・ハーバート

フランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』は年始に読み始め、実際には第一部で止まってしまった。つまり、ポール・アトレイデスが家族とともに惑星に到着する場面から、彼が最盛期を迎え、惑星での権力争いを決する最後の戦いまでを読んだ。それはちょうど今年に出た映画の第二部もカバーし、多分今度第三部の内容も含めていると思う。

SFとして、非常に本格的で、代表的なものであり、同時に世界の有様の説明が無理やりになされているのではく、非常にエレガント、また巧妙な年代記な形で語られ、登場人物のそれぞれの役割や、物語の中の機能がちゃんと設定されている。

また、この作品で扱われる予言や運命のテーマは、陳腐な意味での予言や運命にとどまらず、エディプス的な致命性にとどまるものでもない。むしろ、宇宙の歴史は何度も、ある人物の自由意志によって形作られるものであり、ポール・アトレイデスの誕生そのものは、以前に計画されたものでありながら、その計画者による誤りでもある。 また、この世界において予言や宗教は、支配者によって植え付けられるメカニズムである一方で、同時に支配者の意志に抗い、独立して自律的な存在となる瞬間があり、その時、それは絶対的な力を持つものとして現れる。このように、予言者は人間に本来与えられない力を手に入れることになり、最終的に人間の超越性と、内に秘めた陳腐さが爆発的に交錯し、宇宙を支配する宿命と偶然を美しく描き出し、ポール・アトレイデスの物語に深く織り込まれる。


2)『チェルノブイリの祈り』


初出: 1997年
著者:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
『戦争は女の顔をしていない』で知られ、2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシの女性作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのもう一つの代表作が『チェルノブイリの祈り』である。この作品も『戦争は女の顔をしていない』と同様に、インタビューを基にしたセミドキュメンタリーであり、チェルノブイリ事故の前後を目撃者たちが語る。

私は『戦争は女の顔をしていない』を初めて読んだときから、アレクシエーヴィチの作家としての技術についてずっと考えてきた。彼女の作品にはヒューマニズムが根底に流れ、同時に、残酷さを語らざるを得ない人間性と、文体の率直さが感じられる。

1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の終焉の兆しとなり、その後のソ連崩壊に深く関わる出来事であった。チェルノブイリという都市名は、旧ソ連圏において、政府やマスメディアの大嘘によって引き起こされた大規模な災害の象徴となった。この事故は、ソ連の政治的停滞や政府機関の無力さを完全に露呈させることになった。

『チェルノブイリの祈り』は、原発事故を経験した一般の住民や、チェルノブイリ原発で働いていた人々、その家族、また周辺の農民たちが、当時どんな思いを抱えていたのかを語る作品である。放射能に関する情報がどのようにマスメディアで伝えられ、どれほど誤解が生じていたのか、個人のストーリーを通して、その多様な側面が浮き彫りになる。

作品に登場する人物が必ずしもソ連の権力に対して批判的であるわけでも、積極的であるわけでもない。彼らの言葉には、素直な感情—痛み、後悔、怒り—がにじみ出ており、それがテクストに深く刻まれている。この作品のドキュメンタリ性の力は、『戦争は女の顔をしていない』と同様に、語る主体となるのが歴史家や専門家ではなく、さまざまなバイアスやステレオタイプにさらされながらも、自分の声を聞いてほしいと願う単なる目撃者である点にある。彼らが心の底から語り出すのは、歴史の事実や信憑性の高い「真実」ではなく、歴史の裏に埋もれた被害者としての切実な体験と、そこにうちづけられた痛みである。


3) 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』



初出
: 2005年
著者: ジョナサン・サフラン・フォア

英語版を手に入れられなかったので、ロシア語で読んだのだが、途中で実は英語で読むべき作品だったことに気づいた。ロシア語の翻訳は、最大の賛美を受けるはずだと思うほど非常に優れていたが、この作品の魅力の一つは、心を打つほどの深い悲しみと、目まぐるしい言葉の詩的な使い方に包まれながら、亡くなった人々への追憶が表現されている点にある。

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は、9・11で亡くなった父親から残された鍵を手に、その鍵で開けるべきドアを探しながらニューヨークのさまざまな家を訪れる小学生の主人公を通じて物語が始まる。しかし、この作品は単なる個人の悲しみの物語にとどまらず、家族内の深い傷や、第二次世界大戦から続く不幸に満ちた祖父母の関係を掘り下げていく。戦争の傷や語ることができなかった悩み、それが重い後悔となり、最終的に永遠の沈黙へと変わっていく過程を巡る物語である。また、言葉で傷つくことを恐れ、丁寧に相手の気持ちを守ろうとしながらも、結果として自分自身を傷つけてしまう人間の本質を描いた作品でもある。

この作品は、トラウマとそれをどう乗り越え、亡くなった人に最後のさよならを告げることをテーマにしているが、その文体や語りの展開は、より広い視野を提供しているように感じる。人と人との間に存在する親密さを、手術的な警戒心を持ちながら、より丁寧かつ思いやりを込めて語ろうとする試みだと言えるかもしれない。私たちが他人に知られたくない傷、黙って抱えた真実がどれほど私たちの中に深い穴を開けてしまうのか。戦争やテロリズムといった大きな言葉に対して、人間はあまりにも小さな存在であり、世界の最大の災害に対して、果たしてどこまで立ち直れるのか、どこまで耐えられるのか。

それらの問いは、9・11の一年後の大きなニューヨークを彷徨う小さな9歳のオスカルの物語によって暗く照らし出され、より激しく、圧倒的に耐えられないものとして浮かび上がってくるようだ。

P.S.

実際、この本を高校生の頃から読みたかったが、なぜかずっと手に取ることがなかった。最近ようやく読んでみて、それが傑作に他ならないと確信した。自分がこの本と出会ったのは遅かったかもしれないが、この出会いの一瞬一瞬が、文学的な魔術に包まれた瞬間だったと感じている。


4)『すべての白いものたち』


初出: 2018年
著者:ハンガン
今年、ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞したと発表された際、彼女の作品を一冊は読んでおこうと決めた。目に留まったのは『すべての白いものたち』だった。最初にネットで英語版を少し読んで、その詩的な文体に感動し、すぐにアマゾンで日本語版を注文した(原作の韓国語で読めないことが残念だ)。

記憶、歴史、主体性。この三つのテーマを巡って物語は展開していく。作品は、記憶の裏側に存在するものが何かを問いかける。それは、言葉を与えられず、歴史にも私たちの目にも透明である「空白」の一つだ。生まれなかった存在、あるいは生まれても世界に長く存在しなかったことについて、ほとんど誰も記憶を持っていない存在。その存在は語り手の姉になるはずだった、しかし生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんである。赤ちゃんの生きていた時間を記憶しているのは、ただ母親だけだ。しかし、この断片的な小説の語り手は、一度も自分の声を世界に届かせることなく消えた存在である姉に、その声を貸し、その存在をテクストの中で浮かび上がらせる。

戦争や虐殺で命を落とした人々への追憶は当然だが、この世界に一瞬だけ触れたことしかない存在、歩き方や笑い方、言葉を覚える時間もなく、私たちの人生と交わることのなかった存在に対する追憶はどうなるのだろうか?『すべての白いものたち』は、虚の存在に目を向け、歴史が無効化する余白の中で、記憶はどのような形を取るのかを問いかけている。

5)『月ぬ走いや、馬ぬ走い』



初出
: 2024年7月 
著者: 豊永浩平
豊永浩平が発表した第67回群像新人文学賞受賞作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を無視するわけにはいかない。豊永浩平の『月ぬ走いや、馬ぬ走い』は、沖縄文学に新たな息吹を吹き込んだと言える。特に注目すべきは、その大胆かつ実験的な構造で、過去と現在が時空を超えて交錯し、異なる時代背景と多様なキャラクターたちの声が見事に融合しているところだ。語りの視点は複層的に展開され、さまざまな語り手の声が文体を通じて新鮮に響く。

この作品は、単なる「歴史小説」や「沖縄文学」にとどまらず、語り口における実験的な要素が際立っている。特に言語の使い方と文体のバリエーションは見逃せない。登場人物たちの教育や思考のレベル、話し方が大きく異なることで、作品全体に多層的な深みが与えられ、沖縄という地域の過去と現在がそれぞれの個人のストーリを通じて重層的に描かれる。これにより、歴史は単なる記憶の断片としてではなく、現在の生きた語りとして息を吹き返す瞬間を生み出す。

総じて、『月ぬ走いや、馬ぬ走い』は、沖縄とその歴史に関するテーマにとどまらず、文学における語りの可能性を大きく広げる挑戦的な作品であり、その実験的なアプローチは今後の日本文学における一つの重要な指標となるのではないかと考えている。

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