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パニック発作と群馬弁を道具に(GM)

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 婚活アプリでもそれはおなじだった。男にとって正直に自分を語ることは針の筵(むしろ)に正座をして焼けた油を呑む行為に等しかった。九州では特殊詐欺に遭ってクレジットカードは停止され、川舟祭でたまたま知った役場の多尾に勧められて生活保護になって婚活はやめた。アプリは三ヶ月つづけたがそれが限界だった。男は婚活アプリを辞めることにした。

 退会期限日の三日前にマッチングしたのがミチだった。男は捨て鉢になって鎌倉で実家暮らしをする五十路未婚年増に書いた文面を、そのままをミチに送ってやった。

 メッセージは三日来なかった。サブスクリプションが切れる直前になってミチから驚くべき返事が男にとどいた。

「それ言うの、辛かったよね。言ってくれてありがとう。あなたの告白に対して私はぜんぜん動じてないよ。正直に話してくれてありがとう。きっと勇気をふり絞って話してくれたと思う。私、その気持ちを全力で受け止めたい。だから心配しないで。一番つらいのはあなたです」

 この返信を読んで男は、この女は信頼できるかもしれない。と思った。

 彼女は本名を田中未知子と名乗った。彼女は未婚女ではなかった。西東京に住んでいて実家は愛媛県の松山市だった。一男四女をもつ母親だった。助産師をしているといった。だが、双方ラインで素性や本名を証明する術はどこにもない。九州でベトナム系の詐欺グループから二百万だまし取られたそれも、まんまとヤツらの偽造運転免許証を信用してしまったからだったが男は自分の運転免許証の写メを、さんざん逡巡した挙げ句に田中未知子に送った。田中未知子は男を信じたようすだった。それから男は最初から思いきって彼女の名を呼び捨てにすることにした。男は田中未知子をミチと呼んだ。

 ミチは五十六歳で男よりも十年上だった。

「そのことじゃねえって、さっきから言ってんベーに! 」

 階下から父の怒号が聞こえる。介護士のだれかに向かって怒鳴っているのだろうか? 男は怯(おび)えた。ふるえ、こぶしをにぎりしめて全身を強ばらせる。動悸が高まって息苦しくなる。まるで巨人に心臓をつかまれてにぎりつぶされているようだ。

「だからバッテリーだよ! アガっちまってんだ。プリウスのよ。ずっと乗ってなかったんだいの! 」

 バッテリー? 男は首をかしげた。それと父が怒鳴った「の」は北関東の話者が同調を求める「だよね」が訛(なま)った「だいに」の「に」と、ニュアンスが微妙にちがう。男は感じた。強調の「の」か。男は自分では喋(しゃべ)らない群馬弁について思考がめぐった。

 二度、まぶたを瞬かせた後、男は何かに気がついて唾をのむ。

 父は介護士たちを前にして他のだれかに電話をかけているのだ。相手は元町十字路の角のトヨタのディーラーかあるいは父の知己の下仁田の近藤オートのどちらかにちがいない。

 父は空気が気まずくなると別件でどこかに電話をかける。男が中学のとき父は館林の駐在所勤務になって家族で行った。男が伊勢崎の高校を受験するのをしおに父は祖父の、いまのこの伊勢崎の土地に新居を建てる決心をした。

 ある秋の夜だった。注文住建の若い営業マンが駐在所にやって来た。茶の間にはいつもより濃い目のカルピスが出、男と妹はよろこんだ。父は木材や間取りの設計には笑顔だった。が、予算の話になると眉を寄せて黙りこんだ。しばらくして父は遠くの知りあいに二十分ほど電話をかけた。リネンの白い幾何学模様のレースが敷かれた四角いテーブルを囲んだ、母と男と妹と訪れた注文住建の若い営業マンはみな黙って正座をしたままテーブルにうつむき、父が電話を終えるのを待った。コオロギが鳴いていた。なんとも気まずい時間だった。

 男は貧乏ゆすりをやっていた。ケータイをだして先ほど読んだ母とミチのラインをいく度も読みかえしていた。つい無自覚にやっていた。それら行動には意味はなかった。

 息苦しくなって男は、手を、上着のなかに入れた。ふくらむ胸に手のひらを押しあてる。肺がふくらむ。胸板を通じて、膨張する肺から外に空気がぬけるびゅうびゅうという風の音を感じる。床を蹴る、じぶんの足は意思とは真反対に独立した小刻みになって、ふるえる。それを、別の意思をもった男の一対の目が、冷たく見つめる。

 まるでじぶんの肉体がうすい皮膚に包まれた気体になったようだ。と男は感じた。もしこのうすい皮膜に針が刺されて、その薄皮が破れたらば、頭に詰まっている思考はこの世界の空気のなかに溶けこむように消えてなくなるのだろうか。男を息苦しくさせるこの浮遊思考は、見えないどこかへと拡散されて、肉体と痛みは霧になる。過去の父の恐怖からも解放されるかも知れない。思考と実在と痛みと恐怖の壁が、あいまいになる。思考はあいまいだ。言葉でうまく言語化できない。抑圧されたこの感情がうまく処理することができない。モヤモヤする。

 息があがったまま男は全身でモヤモヤを感じる。なぜじぶんは全身でこんなにモヤモヤを感じるのか。このモヤモヤの正体は一体ナニモノなのだ。このモヤモヤは、婚活へのイラつきやバイトへの情緒不安や父への恐怖やあるいはそれはまったく別の体内器官の異常や疾患からくる状態なのか。男はわからない。男の貧乏ゆすりと動悸と息切れと、思考浮遊の衝動、得体のしれないモヤモヤは体内でふくらみつづける。息苦しさは、増す。

 男は全身をガクガクとふるわせながら床にへたりこんだ。モヤモヤはからだ全体に毒ガスのように充満する。どうやっても拭い去らない。逃げ場のない苦痛で、恐怖は倍加する。恐怖に耐えきれなくなって男は、目をつぶる。目をつぶるとこんどは恐怖が、さらに十倍増しにふくれあがった。恐怖は闇のなかで膨張する。闇で弾けて狂うまで。

 唐突に、なんの脈絡もなく、恐怖の闇のなかにマッチングアプリで知り合ったミチという顔のない女が頭に浮かんだ。男はミチという女の顔をまだ知らない。闇のなかではミチは真っ白でのっぺら顔の女だった。「それ言うの、辛かったよね。正直に話してくれてありがとう… 一番つらいのはあなたです」男はまたケータイをだしてミチのラインメッセージを読みかえしていた。ミチという顔のない女を無性に抱きたくなった。男は勃起していた。

「もう、けえってくんねえかいのっ! 」

 階下から、父の怒号が聞こえる。男は心臓が止まりそうになった。

 とつぜん男にそれは襲ってきた。

 前触れなく男の全身の肌が粟立った。すべての毛穴から脂汗が吹き出てきた。同時に寒気と吐き気がおとずれた。男はまず片膝をたてそれから両手をつかって立ちあがろうとしたが、すーっと頭の血の気が引いて、脳天を、机の角に、ごん、とぶつけて男は右肩から床に倒れこんだ。頭部が熱い。血が出たか。男はそのままの姿勢で耳を床につける。床面を通して、階下でふすまが開く音が鼓膜に、ひびく。

「私らにけえってくれっつったってねオザワさんね。オザワさんは私らと駒江病院からここに来たんですよ。これからみんなで駒江病院に、けえるんですよ」

 女の介護士の、太い、はっきりとした声だった。嫌味を感じない渇いた声が家の玄関の吹きぬけにひびいた。まわりに笑いが起こった。

「では病院にかえりましょうか。退院まではもう少し時間がかかりますからね。この件はゆっくり考えてください。オザワさんひとりで立ちあがれますか」

 男はひとりで立てなかった。

 息苦しい! 床に、男はくの字になって蹲(うずくま)った。心臓は石のように硬くなった。胸中に激痛が奔(はし)った。推し倒された銅像のようにうずくまる男の目の前の、机の足に、ネコが箱座りをしている。ネコは男に近寄ってきて頭部に頭をぶつけてくる。呼吸がきつい。心臓はまるで他人ににぎられたようにさらに硬く萎縮する。その力はまるで万力でゆっくりと潰されるようだ。激しい痛みだ。首筋が痙攣(けいれん)で訴えてくる。息は吐くばかりで新たな空気は肺に入ってこない。肺の内部が冷たく感じる。これ以上はもう呼吸ができない。ここれはパニック発作だ! と気がついたとき男は二階の床の上で、まるで水面に口を出してパクパクさせる魚のようになって空気を噛(か)み、胸を両手で引っかいていた。

「すみませんね」

 母の声が聞こえる。

「わりいんね。ひとりで立てるよ。フタ開けなかったお茶はよ、もってってくんねえかい」

「いいんですよ。おきもちだけで」

 女の介護士の笑い声が聞こえる。

「おい。ペットボトルを袋かなんかに包んでやれ」

 父の母に言う声は落ちついた声音にもどっていた。


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