「鮎の骨」のほぐしかた
noteを始めて、一ヶ月。
最初に「お、いいな」と心で唸った掌編でした。
それから、また、いい物語を発見しました。それはまた次回に。
「ふじこ」さんの短編集は、なかなか好きです。
(こういう解説っぽいのは書きたくないんだけれど)
田原が鮎をギュッギュって押さえて上手にさばく。それを「どこでこんなの覚えたの?」っていう返しに、無表情に「動画で」と答える。そういう時代をつかんだ感。いいなぁと思う。
ぼくはわりと古い小説を読んできて、例えば、
隆は、濡れ雑巾を絞った。みていると、ダンゴムシが生き返るように雑巾の皺がもどる。
みたいな表現。ああいいなぁって思うんです。それに通ずるような、田原の箸に鮎が押しつぶされた肌感。いいなぁ。と。
ぼくじしん、じぶんの小説が、自分の文体が、純文学だと。
そうじぶんで決め込んで、あるいは、頑なまでにそう思いこみ、ずっといままで書きつづけてきました。
ですが、じぶんの文体って、そう簡単には客観的に見られるものではありませんよね。
とある小説スクールの純文学の講師に「きみの文章は、しっかり書けては、いる。だが、どうも既視感がある」といわれ、目の前が真っ暗になりました。つらくて寝こみました。
それからある人と出会って(ココでいちばん重要なことを割愛しますが)、いまはじぶんを「純文学の額」にはめこまずに、「じぶんの文章」に向き合っているところ。
そんな矢先に、ふじこさんがかく、純文学の掌編集にであいました。
刮目すべきは、この「掌・短編集」。
アップされた、ふじこさんの作品群の古い順から、目を通していく。すると、彼女の文体の、ちょっとした成長譚、を垣間ることができます。
書きつづけている時のながれも、ぼくとおなじ分量でした(質はともかく)。
ま、嫉妬しましたが。
笑。
優しく、そっと(できれば気づかれないように)、成長を見守っていきたい。
そんな作家の卵の作品群。
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