ラストシーン、伏線の回収、いろは歌(GM)
7079文字+有料
「アキトくんの見た真実。それを書くのが作家じゃないの? 」
男はノリの母親の言葉を思いだした。
それは男の無意識がさせた行為だった。取りだしたケータイの録音のスタートボタンをタップし、「喜ちゃん飯店の裏手、乾燥機の前」と吹きこんで、前ポケットのなかにすべりこませた。
「アナタのそういう所がね、アタシは嫌いなんですね。オザワさんね、やっぱり、やっぱりオザワさんも大人だからわかるよねえ? あたしがなにか言ったら、働かせてもらってるんだから、経営者のやっぱり、あの、教え、教えてもらってるんだからそれを、やっぱり、素直に聞かなくちゃいけないんじゃないかなってかなって、思ったんですよ。でそういうアレがオザワさん一節(いっせつ)もなかったんです。あたしがなにかアンタにさ『どうしたなにかあるん? 』 って言うとさ、『独りごとです』って。そうすると、なんつんだろなァ。うしろで一所懸命、オザワさんが洗い場で立って独りごとをぶつぶつぶつぶつでっかい声で言ってると、調理している人が、もう、いらいらしてたんだって」
「えッ! 」
「わかるんよ! あたしには! イライラしているんが見えるんですよ、あたしには。もうみんな長いから。あたしが、ほら。あたしのとこにきてみんなもう長いじゃん。そういう気持ちが自分の子どものようにあたしはわかるわけ。だからそういうのって、今日は、それがなかったんだけれども。クセっていうのは一んちじゃ治らないから。また、おんなじことの、あたしくりかえしになるんじゃないんじゃないかなって、オザワさんあたし思ったんすよ。次は助かるんですけど、でもやっぱり、あのいらいらしながら気ぃ使いながら仕事するのあたし非常に嫌なんですよ! いままでそういうの経験を散々してきたから、だからどうしようかなって思ったんです。まァ、クセっていうのは出るから。なにかに言って、返事しなかったりとか。絶対ね。クセは出ちゃうんですよね。だからあたしはみんながオザワさんにきてもらって使いたかったらみんな使ってって言ったの。でもあたしはもういいかなって思ったんです。あたし自身はね。だからそういうのは悪気があってオザワさんに言うわけじゃないんだけども、なんて言うんだろうな。溶けこむ、この、ひとんなかに溶けこむ輪があるじゃないですか、ウチにはウチのもう古い輪が。そのなかに溶けこむっつうことは大変なんですオザワさんも、たぶん緊張感もあったり大変な思いしてきたんだと思いますよ、でも、初めてだから、あ、言われたとおりにしようってそういう気持ちで入ってもらえると、こういうふうに言わないで、ウチの店にきてもらおうかなってあたしの気持ちも変わったんだけど、ちょっとそれが、初っ端からそういうアレが、オザワさんには無くて、えー。無かったから、ちょっと、ちょっと、あたし自身キツいかなって。あたし思ったんですよ。オザワさんどんな気持ちでいるんだろうな。あたし考えといてって言いましたよね? オザワさんどう? つづけられる? 仕事がキツいって言ってたよね。んで調理場にくれば『仕事はキツくないです』ってあっちとこっちで言う言い方がぜんぜん違ってくると、なんだろうなっていう感じんなっちゃうわけ。だから、オザワさんも、もっとぉ、あのー、孤独じゃないけど、団体行動でなく、違うところの仕事が、オザワさんに合った仕事がほかにあるんじゃないかなって、あたし思ったんですよ。ここで気ぃ使って、言ったり、お互いに気ぃ使っているよりかも、オザワさんに合ったもっと違う仕事があるんじゃないかとあたし思ったんですよ。頭は良いし、年代もいってるからぁ、そう言うことをオザワさんに考えてもらおうかなと思ったんですけど。どうしますか?」
「…つづけます」
「はぁ?」
「ぼくはつづけたいです」
「えー。あたしは嫌だな」
「つづけたいです」
「あたしは上がってもらたいって思ってるんですよ」
「リョーマさんに進退は任せてるんです」
「リョーマはまだ後継ではないので、後継じゃないけれども、リョーマたちもそう言う気持ちでいると思うんだよ。で今日一んち初めてぇ、初めてオザワさんの様子を見させてもらったんです。みんながそういう気持ちなのよ。代表してあたしが。やっぱり、経営者だから言わなくちゃなんないん。ひとを使うのがあたしの仕事なんでぇ。うん。そんなんであたしが伝えたんです。だからあたしとしてはぁ、今日でぇ」
「明日はないんですか? 」
「ないんです。はい」
「…」
「そういう感じなんですけど。オザワさんに合った職場が見つかれば良いんじゃないかなって」
「本当にないんですか? 」
「ないんです。あたし自身はね。うん。疲れちゃうんですよ、あたしこういうの」
裏手の廊下で子どもが騒いでいるのが聞こえる。
「ママ」
ナオの声がする。
「カバンを持ってきてくれた」
乾燥機がまわる脇に、ミホは首を出した。
「どこへ? 」
オクサンの眉間に深いシワが寄った。
「カバンだよ」
とナオが言った。
「言ったじゃん」
ナオは洗濯機のまわる渦を見つめている。
「カバンを持ってきてくれたの」
ミホは言った。
「お客さんが」
ナオは言う。ミホは男に会釈をする。
「カバン? 」
オクサンはナオにふりむく。
「カバンだったよね」
ナオとミホは顔を見合わせた。
「コチョウランの?」とオクサンは言う。
「胡蝶蘭? 」とナオは言う。
「ううん… 」とミホは言う。
「カバン」とナオは言う。
「あッ! 」とオクサンは目を丸くする。
「いま」とナオは言った。
ナオはアゴで店内を示す。
「ちょちょ、ちょっと、コーヒーでも飲んでもらってて」
ナオとミホは、勝手口へ向かった。
「ということで」
オクサンは男に言おうとする
「マスターに、お願いしていいですか?」
男はこぶしを強くにぎった。
「ううん。でもたぶん、みんなおなじ気持ちだと思うんだけど、じゃ、お父さんに聞いてみますか?」
「はい。お願いします」
オクサンはあるきだす。
「わたしはオザワさんが使えるとは思えない」
男は黙ってオクサンについて勝手口へのびる通路をあるく。ネコが背を丸めて残飯を食べていた。
「ああっ」
ミホは勝手口に足をかけたオクサンに、声を上げてよろけた。
「いいじゃないすか! 」
オクサンはよろけたミホを押し退けて、座敷に座る常連に、声をかける。常連は低いヒールの靴に足を入れて会釈をする。オクサンはそれを無視して、
「お父さんはどうなの? 」
常連は帰っていった。マスターは目を宙に泳がせて口ごもった。男は胡蝶蘭がプリントされた持ち手の長いコットンバッグを一瞥(いちべつ)した。
「お父さん、どうですか? 」
マスターはまた口ごもった。
「え? どうなんですか? 」
男は、勝手口に踏み入れてキッチンに頭を下げる。それからカウンターの脇を通って厨房の前まで行った。マスターは春巻きの餡に皮を包んでいた。その隣でトモキが鍋をふるっていた。タツとリョーマはその場にいなかった。
オクサンは、店内の宙の一点を見つめ、目を泳がせる。「いいじゃないですか!」を連発した。厨房では鍋がぶつかる音が聞こえる。アロワナが泳ぐ水槽の裏手の個室から声が聞こえる。
「いいじゃんこのカバン! 」
「ねー。いいですよね」
「いいじゃないすか! 」
「え? こういうカバンなの? 」
「こういうカバンなんじゃないの? 」
「いいじゃないすか! 」
男は声のするほうを向く。オクサンは水槽で泳ぐアロワナにさけんでいた。
「これ、持ち手のながさちょうど良いよね〜」
「そうですよね〜」
ナオとミホははしゃいでいる。
「やだねー。使ってやってるんじゃないですか。いいじゃないですか! ねー。お父さん。いいじゃないですかねぇ。お父さん。いいじゃないですかね。お父さん! 」
オクサンはアロワナに向かって言う。
「えー。こうひらくんだー」
個室から嬌声が聞こえてくる。アロワナの水槽の前の床に、オクサンの紫色の突っ掛けの片方がひとつ転がっている。オクサンは厨房に走ってきた。
「いいじゃないすか! 」
「いや、おれはいいよ」
「え、いいの? ほんとうに?」
マスターは額にふきだした汗をぬぐった。
「いいんですか、ほんとうに」
「… 」
「お父さん、手ェ空いたら、ちょっといいですか」
「手が空いたらなんなんだよ」
マスターはくぐもった声で答える。
「これはメニューの五目あんかけですか? 」
男は鍋をふるうトモキに言った。
「やめる人間のまかないに高価なエビなんか入れるんじゃないよ! ネコにやるハムでも入れときな! 」
「えっ」
トモキは一瞬、身体を硬直させて、男に笑った。
「手ェ空いたらいいですか、お父さん」
マスターは前掛けで手をぬぐった。
「オザワさんのことで、お父さんから言ってもらいたいの」
「いくらしたのかな〜」
「ここかわいい。アップリケがついてる〜」
「オザワさんが、お父さんに、お願いを、したいっていうの」
「ここ、カビが生えてるぅ」
「カビじゃないよ。カビなわけないじゃん。柄だよ」
「オクサン、コーヒー一杯いただきますねェ〜」
タツはマグカップにコーヒーを一杯いれて裏に出ていった。
「ニク、入れますか」
トモキは厨房から歩いてきてオクサンにまかないを見せる。
「いらない、いらない、いらない、いらない」
「そういうの、もう要らないから」
「ぜんぜん要らない」
「いいじゃないですかァ〜」
「わたしこういうバッグ欲しかったんですよね。ふふふ」
「仕事ができると思って、雇ってやったんだから」
男は床に立ったまま握りしめたこぶしを腿につける。
「ホールと洗い場だけですけど、マスターの下で働きたいんで、仕事させてください」
男は店内にひびき渡る声で言った。
「……」
「ご迷惑かけてすみませんでした」
「…」
「マスターにダメと言われたら、帰ります」
外でネコが鳴いている。
「お父さん、ボール」
「自分でとりに行くのも、キャッチボールだぞ〜」
トモキが耐熱ガラスに入ったまかないを男にわたした。
「熱っ」
「え、平気? 」
トモキは言う。
「へ、平気です」
男はまかないの入った耐熱ガラスを素手で受け取った。そのままレジの横のディシャップに置いた。
「裏に、出ようか」
マスターは前掛けで手をぬぐって顔を上げた。
男はマスターの後ろについていく。勝手口に出ると、オクサンはいた。
「使うのはお父さんじゃなくて、あたしなの! 」
「…」
「お父さん調理場ではたらくひとを使うんであれば、オザワさん使えるけど、ホールで使うのならあたしは使えない」
「…」
「申し訳ない。申し訳ない」
「調理場だけなら。使うよ。だけどホールがいいって言わねえとなあ」
「…」
「わかるだろ、お前も」
「わかります」
マスターは口を噤(つぐ)んだ。
「上がります」
マスターはうなずいた。
「だから仲良くやってかなくっちゃいけない仕事なのかなぁって、あのねえ、いちばん最初の初っ端が悪かったんですよ。今日は良かったんですよ。初日はなにを言っても返事はしないし、態度はわるいし、そうだよね、そうだよね。もっとなにか言ってよ。強く言ってやってよ」
「ウチはそういうグループだからさ、仲間同士で」
マスターは重そうな口をしぶしぶと開いた。するとオクサンはまた饒舌になってしゃべり始めた。
「せっかく縁があって、縁があってつっても、もうこうだけどね」
「雰囲気がわるくなっちまう。それはどこへいってもおなじだ」
「だから治さないとダメだよ。これからほかで働くぶんでもはたらいてください」
「わかりました」
「ダメ。申し訳ない。申し訳ない。本当に。あたしは使えないオザワさんを」
オクサンは満面の笑みを男に見せた。それからエプロンのポケットから茶色の封筒を取り出した。
「多めに入ってるから、これ」
「あ」
給与袋だった。折られた男の履歴書が突き出ているのが見える。
「お給料、多めの入れといたから。ちゃんと入ってるから」
男は半分に折ったそれを後ろのポケットに差しこんだ。
「短い間、本当にありがとうございました」
男は頭を深々と下げて立ち去ろうとした。
「それだからダメなのよ」
「はい、あがります〜。笑ってみなよ。ほら、やってみなよ。ここで。ほらできないじゅない。だからダメなのよ。そんなんじゃ、どこへ行ってもダメよ。これが団体行動だから、オザワさん。サンダル持って帰ってください」
男はバッグに荷物を詰めて立ち上がった。
裏につながる自宅からオクサンがやってきた。腋に菓子折りを抱えていた。
「ほら、これおみやげ。もってって」
「え? 」
男は固まった。立ち尽くしたまま、菓子折りを見つめた。「華麗秋月、ほっぺた落ちるカレー揚げせんべい」と書いてある。男は、菓子折りと、オクサンの笑みを交互に見かえした。まるでいつまでもラリーがつづく卓球を眺めるように。
「要りません」
男はオクサンをにらんだ。
「だからダメなのよ。そんなんだからアンタはどこ行ってもダメなのよ。こういうのはもらっておくの。それが社会で上手にうまく生きていくことよ」
駐車場で男は、自転車にまたがって、喜ちゃん飯店の赤い看板を見上げる。雲が黒く濃かった。雨が降りそうだった。
男はサドルに重い腰を乗せて、ペダルに体重をかけた。
「だれ、あんな木偶の坊のデンワを最初に受話器とったのは」
オクサンの声が聞こえる。
「あたしだよ」
ナオの声だった。
「そんなこと言ったら、電話にでる人みんなが貧乏くじひくみたいじゃないか」
店内から、スタッフの、高らかな笑い声が聞こえる。
男は、出島のようになった喜ちゃん飯店の敷地を出た。
「ほら、これおみやげ。もってって」
「え?」
「要りません」
「だからダメなのよ。そんなんだからアンタはどこ行ってもダメなのよ。こういうのはもらっておくの。それが社会で上手にうまく生きていくことよ」
男は音声アプリを確認してファイルに保存した。
「ヘイ、シリ」
男はAI音声アプリを呼びだした。
「こんにちは。お呼びですか」
「カレーせんは好きか? 」
「おもしろい質問ですね」
「華麗秋月、ほっぺた落ちるカレー揚げせんべいは好きですか? 」
「どうお答えしたらいいのか、わかりません。なにか他にお手伝いすることはありませんか? 」
「いま貰ったこのカレー揚げせんなんだけど。ノリん家に、まんまもってっていいかな」
「そうなんですね」
「だまってりゃあ、ノリの母ちゃん受け取ってくれるだろうか」
「残念ながら、それはできません」
男は黙った。やっぱなんかズレるな。男は思った。
田畑いちめん、新緑が風で音を立て戦いでいる。
男は質問を変えた。
「ここから、ノリの家、西善町○△の□へむかう」
「地図を検索します…」
男はサドルにまたがった。
「南にこのまま、まっすぐ直進です」
男はペダルを強く踏みこむ。
「ベイシアビジネスセンターを左に、北関東自動車道の側道に沿って直進一キロ、進みます」
「わーった、わーった。もうだまっていい」
「… 」
「知ってたよノリん家は。ただ聞いてみ、た、だ、け」
「ハイ」
「おま、いま。ハイって言ったのか」
男はヘルメットをかぶりながら、よろけた。
「お手伝いができて、よかったです」
「なにがよかったんだよ」
男の、ハンドルをにぎる手は力んで、ロードバイクごと菜の花畑のなかにころげた。
「っ痛え! 」
菜の花畑は、真っ黄色で咲きほこっていた。
そのまま空を見上げる。青い空だ。さっきまでの雨模様は嘘のように晴れ渡っている。赤城山から下ろす風で刻一刻と変わりゆく空。これが男の住む群馬の空だった。
四十六年、慣れ親しんだ空。いつもよりも青く透明に、清々しく、男はかんじた。菜の花畑に倒れたまま、大の字に仰向けになった。
シリは沈黙した。男はしばらく青空を見つめた。
ばさり。
耳元で、それは聞こえた。
それから男の目の前を、大きな翼が黒く覆った。
シラサギの翼だった。それも大きな二羽のシラサギだった。つがいで、青い空へと飛び去っていった。
「やっぱり、あんときも、シラサギだったのかな」
男はひとりごちた。
「はい、お呼びですか? 」
「だから、おめーじゃねえから」
ふと、男はなにを思ったのか、
「歌って」
「わかりました。ごほんっ、ごほんっ、ららららららららら… うーん、今日は声の調子がイマイチです。またの機会にしましょう」
「その声はじゅうぶんに素敵だよ。歌ってよ」
男はシリにねだった。
「歌を歌うのは、プロの方にお任せすることにします」
「大丈夫だって、ぜひ歌ってよ」
「わかりました。どうしてもとおっしゃるなら…
さくら
さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
朝日ににおう
さくら
さくら
花ざかり… 」
シリがしゃべる日本語、あまりの棒読みに苦笑して男はツッコみを入れようとした。が、思いとどまった。シリに、真心を感じたからだ。
「いい歌ですよねぇ。ではいろは歌でも詠いましょう。
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす」
男の顔面は、笑みで、綻(ほころ)んだ。涙腺からほおに伝った、光の筋を、二の腕でぬぐった。畑に肘をついて倒れこんだときに摩(こす)った、菜の花の青い臭いが、鼻をついた。
菜の花畑から起き上がって男はロードバイクを立てサドルに跨(またが)った。アプリの女が地図で指しめす、西善にあるノリの家へと向かった。
色はにほへど
散りるぬるを
我か世たれぞ
常ならむ
有為の奥山
今日越えて
浅き夢見じ
酔いもせず
〈了〉
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