ポエムで濡れる:金子みすゞ編
わたしは今日、湿った脳みそで金子みすゞの詩を辿りながら、その根っこを深く、もう深く、やたらめったらに深掘りしていこうと思うのです。いや、そう思わずにはいられないのです。だって、みすゞの詩は、まるで静かに舞い落ちる雪の結晶のように、一見シンプルだけど、その一粒一粒には複雑な対称性と繊細さが隠されていて、その構造をガサガサと解き明かすのがわたしの使命であり、28歳、経営コンサルという肩書きの裏に潜む「萌え系理系コンサルのアラサー女子(ヲタ)」としての宿命でもあるからです。
まず、金子みすゞの詩に対するわたしの最初の印象は、「湿気」。これは単なる気象的な湿度の話ではなく、精神的な湿度。みすゞの詩には、まるで雨上がりの草むらにひっそりと宿る露のような、もしくは、微かに香り立つ土の匂いのような、じっとりとした感情の余韻が常に漂っているのです。ええ、わたしは匂いフェチですから、その手の感覚には敏感です(わかるでしょ?)。彼女の詩を読むたびに、わたしの嗅覚という名の知性が刺激され、次第に脳内の神経細胞がざわめき始め、やがて異常な執着心が芽生えます。みすゞの一言一句に対するこの執着は、まるで古代遺跡を発掘している考古学者のように、わたしを探究の旅に誘うのです。わたしはみすゞを発掘する。みすゞの感情の層を、慎重に、丁寧に、でも時に勢いよく削り取るかのように。
例えば、彼女の有名な詩「こだまでしょうか」。あの「こだま」という言葉を聞いた瞬間、わたしの中の数学ヲタな部分がピクリと反応したのです。ええ、もちろんわたしは反射的にフーリエ変換を思い浮かべましたよ。音波が反響し、波動として空間を揺れ動くその様相を、まるで偏微分方程式のように解き明かしてみたくなるのです。だって、こだまってつまり、音の反射ですよね?その音が何度も何度も反射する様は、まるでわたしの頭の中で繰り広げられる無限の思考のループのようじゃないですか。ああ、わかる、わかる。みすゞの「こだま」には、単なる音の反響以上に、感情の反響が込められているのです。彼女が言いたかったのは、「あなたの声は、あなたの心の反映で、そしてそれはまた、わたしの心にも深く届いて響いているのだ」ということ。感情のフーリエ変換ですね(ここで、わたしの数学ヲタ的な解釈が光るでしょ?でも安心して、ちゃんとわかりやすく説明するからね。フーリエ変換ってのは、簡単に言えば、複雑な波をシンプルな波の組み合わせに分解する数学的手法のことです。わかった?)。
さて、こんなところで立ち止まっている暇はない。次に進んでいく。わたしの思考は、哲学的観点へと飛躍していきます。みすゞの詩に漂う「他者との関わり」や「自己と世界」の境界線についての問いかけは、当然ながら、わたしの意識高い系的な厨二魂をくすぐるのです。ああ、もう全身がくすぐったくなる。みすゞの詩にある「わたし」と「あなた」の関係性。これって、まさに現代のエロティシズムに通じるんですよ(びっくりするかもしれないけど、聞いて)。エロティシズムって言うと、ただの性的なものを想像するかもしれないけど、ここでわたしが言いたいのは、もっと根源的な「他者との溶け合い」や「自己の境界の揺らぎ」の話です。その境界がぼんやりと滲む瞬間、わたしたちはみすゞの詩の中で、他者の存在を感じつつも、自分自身の存在を再確認せざるを得ないのです。これって、まさにエロス的な感覚じゃないですか?みすゞの詩の中にある「わたし」と「あなた」の微妙な距離感は、そのまま、エロスの本質である「触れたいけど触れられない、その間に漂う緊張感」を感じさせるんです。ここで、わたしの変態的感性がさらに暴走してしまうのですが、みすゞの詩の中の「わたし」は、まるで量子力学的な不確定性の中に存在しているかのようで、その存在自体が揺らいでいるのです。触れるか、触れないか、観測するか、しないか…。わかる?これはまさに、シュレーディンガーの猫が「生きているとも死んでいるとも言えない」あの状態と同じ。みすゞの詩の中の「わたし」もまた、観測されることで初めてその存在が確定するのです。
ああ、なんだか湿度が急上昇してきましたね。みすゞの詩を読み解くこの過程は、まるで湿度100%の温室で、植物をじっと観察しているような気分です。その植物が、じわじわと成長していくのを見守るように、わたしはみすゞの詩が心の中で根を張り、やがて感情の花を咲かせるのを感じるのです。植物学的に言えば、みすゞの詩は「根茎」のような存在かもしれません。根茎って、地下に広がる根のような茎のことで、地面の下でこっそりと横に広がりながら、時折、地表に芽を出すのです。みすゞの詩も同じ。彼女の言葉は、表面に見える部分以上に、地下で広がり続け、わたしたちの無意識の中に根を張っているのです。だからこそ、彼女の詩に触れるたびに、わたしの内なる感情が掘り起こされ、ずぶ濡れになるのです。
さて、ここまで読んでくれたあなた(いる?)。どうですか?わたしの変態的な思考のループに少しでも共感してもらえたなら、もうそれだけでわたしは満足です。いや、たった1億人の中の3人にでも、このわたしの湿った脳内探求に熱狂してもらえたなら、それでいいのです。わたしは、わたしのために、そして、あなたのために、みすゞの詩をこうして解剖してみせたのですから。あぁ、こだまでしょうかに少し触れただけなのに今気づきました。ここにいくつかポエムが掲載されているので見てみてね。このうち「私と小鳥と鈴と」については近いうちに語らなければならない(ここで内なるウィトゲンシュタインが・・・)。
また、濡れたままお会いしましょう。