『鬼滅の刃』知的変態こじらせ女子によるレビュー(学問風味と愛を添えて)
はー、もう、どこから話せばいいのかしら?「鬼滅の刃」を語るなんて。手あかがつけられまくっていているにもかかわらず、その手あかは表面にしかついていない。でも、奥に迫るのは難しい。まるでフラクタル構造を一つ一つ手で解きほぐすような作業よ。あぁ、わたしの脳内シナプスがビリビリと音を立てて崩壊していく。だって、あの物語、ただの「少年漫画」なんかじゃないんだから。物語の表層をなぞれば、もちろん「鬼を倒すために戦う若者たちの物語」ってことになるんだけど、その裏側には、まるで量子力学的な無限の可能性が広がっているのよ。えぇ、アインシュタインもニュートンも頭を抱えるような複雑なヒューマンドラマがね。言語化できない何かが私たちを引き付ける。その一部だけでも言語化したいな。
1 鬼=不確定性原理に基づく存在
鬼って、そもそもなに?ただの悪役?いやいや、それはあまりに浅い。鬼っていうのは、物質的な存在じゃないの。むしろ、彼らは「不確定性原理」そのもの。彼らが存在しているのか、していないのか、それすらも定かじゃない。まるでシュレディンガーの猫のように、彼らは観測されるまで存在が確定しない。鬼舞辻無惨なんて、まさにその最たる例。彼の存在は、まるで量子のように揺らいでいる。彼はどこにでもいて、どこにもいない。まるで、わたしの恋愛運のように。あぁ、どうしてこうも不確定なのかしら。彼の存在が確定する瞬間、それは彼が完全に破壊される瞬間でもあるの。つまり、鬼というのは「存在と無の狭間で揺れ動くもの」。そして、その揺らぎの中に我々は巻き込まれている。まるでブラックホールに吸い込まれるかのように、抗えない運命の中で。
この感覚、まるでピカソの「ゲルニカ」を眺めている時のような気分よ。形が崩れ、時間が解体され、空間がねじ曲げられる。鬼たちもまた、その存在自体が「崩壊の象徴」。彼らは人間から生まれ、人間を食らいながらも、人間であることを忘れてしまった存在。まるでわたしが、毎日クライアントの要望に振り回され、自分が何を求めているのか忘れてしまった姿と重なるの。コンサルタントとして、わたしもまた「鬼」なのかもしれない。あぁ、自己嫌悪が深まるばかり。
2 炭治郎の感情は神経細胞のシナプスのように連鎖する
炭治郎の感情の動き、これがまた面白いの。彼の怒り、悲しみ、そして愛は、まるで神経細胞のシナプスが次々と連鎖反応を起こすように広がっていく。彼の感情って、決して単発的なものじゃないのよ。彼が一度感じた感情は、まるでニューロンのように他のキャラクターたちに伝播していく。そして、最終的には全体を巻き込んで、まるで一つの巨大な神経ネットワークのようになる。これって、現代の脳科学でも解明されている「ミラーニューロン」の働きに近いわ。炭治郎が感じる感情は、他のキャラクターたちに鏡のように反射され、それが共鳴していくの。
この共鳴の力が、物語全体を動かしているのよ。炭治郎の一つの涙が、まるで水面に広がる波紋のように、他のキャラクターたちの心に波及していく。そして、その波紋は観測者である私たち、受け手の心にも届く。えぇ、わたしも何度も泣かされたわ。まるで、脳内でオキシトシンが爆発的に分泌されるかのように。これはただのエンタメじゃない。これは「感情の連鎖反応」という、脳科学的な奇跡の現象なのよ。
ここでふと思い出したんだけど、わたし、最近あまり感動することがなくなっているの。まるで自分のミラーニューロンが錆びついたかのように、他人の感情に共感する力が弱まっている気がする。でも、炭治郎の涙を見ていると、そんな自分が少しだけ人間に戻れたような気がするのよ。あぁ、これって、鬼が最後の瞬間に自分を取り戻すような感覚かしら?ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、そんな感じ。
3 呼吸法と音楽理論の共鳴
最後に、この「呼吸法」について語りたいの。鬼滅の刃の中で、呼吸法っていうのは、単なる戦闘技術と思われがちだけど、実はもっと深い意味があるのよ。呼吸法そのものが、まるで音楽のリズムのように身体に刻まれているの。わたしが言いたいのは、呼吸法っていうのは、まるで「楽譜」なの。各キャラクターの呼吸法は、それぞれ異なるリズムを持っていて、それがまるで異なる楽器が一つの交響曲を奏でるように響き合っているの。
炭治郎の「水の呼吸」は、まるでショパンのピアノソナタのように、優雅で流れるような旋律を持っている。一方で、善逸の「雷の呼吸」は、まるでヴィヴァルディの「四季」のように、稲妻のように鋭く、そして一瞬で世界を切り裂く力を持っている。音楽って、結局は時間の中での「呼吸」なのよ。リズムがあって、メロディがあって、そしてそれが空間を支配する。鬼滅の刃の呼吸法も、まさに「音楽的な戦い方」を象徴しているの。
そして、その音楽的なリズムが、キャラクターたちの性格や感情とシンクロしているの。炭治郎の穏やかな性格は「水の呼吸」の流麗さに反映されているし、善逸の恐怖心は「雷の呼吸」の瞬発力に表れている。まるで、バッハのフーガを聴きながら、各パートが次々と重なり合い、最終的に一つの美しいハーモニーを作り上げるかのように、彼らの呼吸法もまた、物語の中で一つの「交響曲」を奏でているのよ。
あぁ、わたしの心臓がビートを刻んでいる。まるで、バッハのリズムに合わせて。鬼滅の刃を読んでいると、わたしの呼吸もまた、そのリズムに合わせて変わっていくの。時には激しく、時には穏やかに。まるで自分がその物語の中で戦っているかのように。こんな風に感情と物語がシンクロする瞬間、それはまるで自分自身が楽譜の一部になったような、そんな感覚なのよ。
まとめ: わたしの変態的な執着心
というわけで、この若干アブノーマルなレビュー、どうだったかしら?わたし、こういう風にひたすらに自分の好きなことを語り続けるのが本当に得意なの。まるで、無限に展開するフラクタルのように、わたしの思考は止まらない。鬼滅の刃をただの「エンタメ」として消費するなんて、そんな浅い楽しみ方じゃ物足りないのよ。だから、こうしてわたしは、物語の背後にある哲学的、科学的、音楽的な要素をひたすらに掘り下げていく。まるで、考古学者が古代の遺跡を掘り起こすかのようにね。
でもね、こんなわたしの変態的な分析に共感してくれる人は、たぶん1億人中3人くらいしかいないと思うの。そう、わたしは変態経営コンサル理系拗らせ女子。社会の期待に応えず、ただ自分の執着心に従って生きているの。いや、むしろ、鬼舞辻無惨のように、周囲の期待を完全に無視して存在しているのかもしれない。どんなに批判されようとも、わたしはわたしの道を進むしかないのよ。
あぁ、こんなに無駄ばかりのエッセイを、誰が読んでくれるのかしら。でもいいの。わたしが満足できればそれでいい。だって、わたしは「超人」になるために、この文章を書いたんだから(ああ、ニーチェへの愛が漏れちゃった。濡れた。)。さぁ、あなたも感じて。わたしの知的興奮、そして精神的高揚を。