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『鬼滅の刃』冨岡義勇の変態性 ~竹の口枷を起点に~
まずはこんな濡れたエッセイを書く羽目になったこと深々と謝罪を。この濡れ感を期待するみなさんの嗜好を本来的には拒否すべきだと思うのですが、どうもわたしはその期待に共鳴してしまい、むしろ快感を覚えながら書いていることをここに告白します。
さて、始めましょうか。「冨岡義勇という変態」の、あまりにも静謐で、しかし底知れぬ狂気の深淵へと。
竹の口枷を少女にはめる。
この発想の根源には何があるのでしょうか。ここで「変態」という言葉を軽率に使うのは、それがあまりにもこの行為の本質を矮小化してしまうからで、わたしはむしろその知的背景を深掘りすることで、彼が無意識に宿している「異常」を浮き彫りにしようと思います。いや、もしかしたらこれは異常ではなく、ある種の普遍的な「人間の衝動」の一部なのかもしれません。
竹の口枷というアイデアの突飛さには、まずわたしたちが物語世界が現実のルールを無視して感じる「解像度の揺らぎ」があります。
口枷。それは通常、動物や危険人物に施すものです。
そして竹。これがもたらす自然性と工芸的な趣。これを「人間、しかも少女(鬼化しているとはいえ)」に装着させるというのは、倫理的にどうか?という問い以前に、そもそもその発想の源泉に立ち返らざるを得ません。
なぜ竹なのか?なぜ口枷なのか?冨岡義勇が「冷静沈着」とされるキャラである以上、この行為は「感覚的な衝動」ではなく「計算された選択」であるはずです。そしてそこに滲む変態性。
彼が少女に竹の口枷を施した理由、それは表向き「鬼である彼女の衝動を抑えるため」という説明がされるでしょう。
ですが、ここで注目したいのは、この行為がいかに象徴的であるかという点です。
竹。それは生命力と柔軟性の象徴でありながら、同時に制約や規律を表すものでもあります。冨岡は、鬼である禰󠄀豆子に「人としての倫理」を強要する一方で、それを自然物である竹によって制御する。この矛盾の中に、彼の無意識的な「倫理の揺らぎ」を垣間見ることができるのです。鬼である彼女を守りたいという感情と、彼自身の理性的な「鬼狩り」としての責務とのあいだで揺れる心情。その葛藤の結果として、竹の口枷という「象徴」が生まれたのではないでしょうか。
しかし、ここでわたしの変態的分析は止まりません。
冨岡義勇の行為には、単なる道具の選択以上のものがあると考えます。それは「支配」と「保護」の二律背反です。彼は竹の口枷を「制御」のために使用していますが、同時にそれは彼自身の心をも制御する象徴でもあるのです。彼女を鬼として見れば斬らなければならない。しかし、彼女を人として見れば守らなければならない。その心の揺らぎを、竹の口枷という「物質」に転写することで、自身の倫理的ジレンマを一時的に棚上げしているのではないでしょうか。
そして、その竹の口枷が「少女」という存在に装着されることで、この行為は一層のエロティシズムを帯びます。このエロスは単なる性的なものではありません。それは「生殺与奪の権を自らの手で握ること」の甘美さ。禰󠄀豆子の口を塞ぐことで、彼女の存在そのものを一時的に「停止」させるかのような感覚。そして、それによって生じる冨岡義勇の無意識的な「救済者としての自己陶酔」。この複雑な心理の絡み合いは、彼がどれほど変態的な「二面性」を持つキャラクターであるかを如実に物語っています。
さらに妄想をぶっこみましょうか。
竹の口枷、それは彼にとって「倫理的拘束具」でもあるのではないか。彼自身が「鬼を斬る剣士」としての自分を制御しきれない場合、この竹の口枷が彼自身に跳ね返ってくるのです。禰󠄀豆子を通じて彼が見つめているのは、鬼と人間の境界線であり、同時に自身の「非人間性」そのもの。竹は彼の心をも締め付け、口枷は彼の言葉をも封じる。それが冨岡義勇という「変態性の本質」ではないでしょうか。
さて、このエッセイを読んで、あなたはどう感じたでしょうか。正直に言いますが、わたし自身、こんなに深く考える必要があったのかと思うほど疲れました。でも、この疲労感こそが「知的お漏らし」の快感であり、変態性を共有する同志たちへのささやかな贈り物なのです。
最後に、ここまでねっとりと書き上げてしまったことに、再度謝罪を。これを読んでドン引きした方も、知的おむつが必要になった方も、どうかこれを冨岡さんへの「リスペクトと愛の表現」として受け取っていただければ幸いです。なお、鬼滅の刃を一気見するウィークエンドなので今後きめつネタが多くなりそうです。