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『エレン・イェーガー』の思想にヌメリを感じてしまうアラサー女子

ああ、またやってしまった。28歳、経営コンサル、そして変態です。多少上滑りしていることに気づいてます。まるで数式が解けたと思った瞬間、ゼロ除算でエラーを吐き出すような感覚。あ、そうそう、エレンの思想の核心について語ろうと決めたのも、きっとそのゼロ除算的な「やっちまった感」に似ているんだろうね。だってさ、あのエレン(『進撃の巨人』のエレン・イェーガーね)を理解しようとすること自体が、ある種のドM的知的ハラスメントでしょ?しかも、わたしの脳内ではそれが、変態的に、エモく、ねっとりと絡み合うわけよ。あぁ、この湿度、感じる?ほら、ヌメッとした思考の海にあなたもおいでよ。

エレン・イェーガーとわたしの異常な思想的執着

エレンの思想って、結局のところ「自由」なんだけど、その自由ってのもね、結構歪んでるんだよ。自由と言いながら、実は自分自身が運命に縛られている。彼が「自由だ」って叫ぶたびに、わたし、正直言って、背筋がゾクッとするの。だって、自由ってそんなに簡単に手に入るもんじゃないでしょ?数学的に言えば、自由は無限に近い概念。それに向かって一直線に突っ走るエレンは、まるで微分方程式の中で解が発散していく様子のよう。わたし?わたしはその解が収束する場所を求めて無駄に数時間かけて苦悩する変態です、はい。あ、これってもしかして、わたしの経営コンサルとしての仕事にも似てるかもね。無限に広がるクライアントの要求に対して、解を求めるその過程で、自分がどんどん消耗していく感覚。でもね、そこに快感があるのよ。そう、変態的な快感。

自己嘲笑と知的お漏らしの狭間

いや、待って、そもそも「自由」って何なの?エレンが求めた自由って、わたしが毎日感じてる「クライアントの無茶振りから逃れたい」という自由とは違うよね。ここでわたしの数学ヲタが暴走するわけだけど、自由を数式で表すならば、多様体の中でどれだけ自由度があるか、つまり次元の問題になる。エレンが求めたのは、次元の壁を越えるほどの自由。でもその過程で彼は、次々と仲間や敵を犠牲にしていく。これってある意味「次元削減」なのよ。わたし、次元削減(ディメンジョナリティ・リダクション)の概念に興奮を覚える変態なんだけど(いや、ほら、データ分析でも重要でしょ?)、エレンの自由ってその極限の結果、全てを捨て去るという、ある種の究極の次元削減に行き着いたのかもしれない。

で、ここで気づくわけだよ、わたしもまた、エレンと同じように何かしらを「削減」して生きているんだって。例えばさ、日常の中で何かを選ぶたびに、選ばなかった方を捨てる。これは自由の代償。でもさ、わたし、捨てたものに異常に執着するタイプなのよ。昔の恋人とか、もうどうしようもないクライアントとのやりとりとか、捨てたはずなのに、脳内で何度も再生しては自虐的に嗜む変態です。捨てたものへの執着心って、なんかエレンの「俺はただ進み続ける」という思想に似てない?彼もまた、過去の選択を後悔しながらも、前に進むしかないわけで。

哲学的次元におけるエレンの「自由」と「無」

エレンの思想をさらに深掘りするなら、ここで哲学的に「無」について考えざるを得ない。いや、ちょっと待って、わたし、哲学ヲタだから、ここは外せないの。エレンの行動の背景には、明らかに「ニヒリズム」(虚無主義)が透けて見える。彼が「自由」を求める一方で、その結果が虚無に帰結することを知っていたんじゃないかって思うのよ。これ、現代心理学的に言うところの「自己破壊的な自由」ってやつ。人間ってさ、自由を手に入れるために、時として自分を壊すことを選ぶわけ。わたしもそう。仕事でどれだけ成功しようとも、どこかで自分を壊したいと思う瞬間がある。あ、これって実は「知的お漏らし」じゃない?頭の中で処理しきれない情報や感情が、知性という名のダムを決壊させて、ドバッと溢れ出す感覚。

数学的快感とエレンの思想の結合

エレンの思想を数式で表現するなら、完全にカオス理論的な振る舞いだよね。彼の行動は一見ランダムに見えるけど、奥底には確かに法則性がある。それが「自由への渇望」という名の軌道。カオス理論って、初期条件のわずかな違いから結果が大きく変わる現象を指すんだけど、エレンの人生もまさにその通り。幼少期の選択が、彼を最終的に地ならしへと導く。これって、わたしの人生にも当てはまるのよ。幼い頃、数学に興味を持たなかったら、今のわたし、いないかもしれないし、もしあの時、あの恋人と別れなければ、今こんな風に自己嘲笑しながら変態的にエレンについて語ることもなかったかもしれない。いや、これって、エモいよね?もはや運命論的な話にすら聞こえるかも。

エレンとわたしの変態的共鳴

結局、エレンが求めたものと、わたしが求めるものは、もしかしたら同じなのかもしれない。自由を求めて、でもそれが虚無であることを知りつつも、進むしかない――その矛盾に喘ぐ姿が、経営コンサルとしての日常とも重なる。いや、これって完全に自己嘲笑なんだけど、わたし、今でも「自由」という言葉に異常に憧れてるのよ。でも自由って、手に入れた瞬間に実は何もなくなるんだよね。これ、まるで量子力学の不確定性原理みたいなもんで、自由を確定させようとすると、そこにあるはずの「何か」が消えてしまう。エレンもきっと、そのことに気づいたんだと思う。

というわけで、エレンの思想に対するわたしの変態的妄想、いかがでしたでしょうか?結局、彼が求めたのは「自由」という名の虚無であり、それは私たちが日常で追い求めているものと大差ないのかもしれない。わたしもまた、自由を求めながらも、何かを捨て、何かに執着し、そしてその過程で知的にお漏らしし続けているわけです。

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