イヤシノウタ 感想
吉本ばなな『イヤシノウタ』を読了した。
とても好きな作家さんだけれど、
「すてき」「あたたかい」「やさしい」
とにかくどの文章にも、
ほんわりと温かなワードがあって、
優しい世界に包まれているので
捻くれもののわたしは正直、途中胸やけしそうだった。
あまりにもたくさんのポジティブはわたしには重たい。
いつもきれいに完結する話もしんどい。
ドリカムの音楽にも似たところを感じる。
90年代の恋愛ドラマにも。
日本がどんどん夢を見ていた時代。
作者はきっと温かくて聡明なご家族に囲まれて
物語を作ってこられたんだろうな、と正直に思った。
それはもちろんとても羨ましくて、
わたしもそうだったらよかったのに、と素直に思う。
東京の都会に生まれて、温かなご両親と
溢れんばかりの才能を発揮しながら成長していける環境なんて
最高すぎるじゃない!羨ましいよ!
きっとその繊細さでたくさんのきれいを見つけることができて
そうして自分の才能を心から信じれる強さもある。
最強じゃない!時代にすら味方されている。
僻みじゃないよ、本当に心からそう思う。
特に終盤のお父様との対談は、とても素敵だった。
わたしは自分の父親と、
あんなに知的で温かい会話を交わしたことがない。
これからもすることはないと思う。
どんなにお互いが心を開いたとしても、
わたしたち親子では出てこない言葉しかなかった。
本当に素敵だった。
わたしが過度なポジティブを嫌うようになったのは大人になってからだ。
中学生の頃は吉本ばななの文章にとても心惹かれてた。
「こんな大人の女性になりたい」そう思ったからだろうか。
女性の感受性を持って恋愛や他者との関係の一番いい、
一番美しい切り取り方をする人だなと思っていた。
そして何か艶やかさのある人。
女性として、人としてこの人はモテるな、と思った。
そんな風に誰かに自分を見つめられると、
そんな風に誰かに自分を解釈されると
誰だってくすぐったく嬉しいし、自分が特別になる。
自分を特別にしてくれる人を、人は特別にしたいもの。
そして現にめちゃくちゃにモテるだろう。
今わたしが感じる彼女の文章はもちろん魅力的だけれど
先にも述べた通り、胸やけ感が否めない。
それは別に彼女の文章のせいではなくて
自分の感受性のポイントが
どういうわけか変化してしまったからで
夢見るだけの状態じゃいられなくなったという
悲しい現実ももちろんそこにはある。
物事をあまりにも相対的に考えてしまうようになった
大人としての経験値も加わって、
思考がもう一方通行ではなくなってしまった。
どちらかというと、リスクの側面を考慮しないといけない。
人生に短い間だけある
「素敵」という理由だけで、
躊躇いなくまっすぐに手を伸ばせる時代が終わってしまった。
こうして書き連ねていくと、
なんだか卑屈になっているように思えるけど全然そうじゃないよ、
あくまで現実。
ここに感情はいらなくて、
おたまじゃくしがカエルになる。
これぐらいの現実。
そう、人として人でありながらの変態。
カエルになったわたしが求めるのは、
もっぱら現実。
完璧なハッピーエンドなんてない。
打ちのめされて落ちるのもまた不幸ではなく
その先の出会いとか経験に繋がっているから
腐らないで生きていてね、とか。
そんな助言めいたものもいらなくて、
ただ打ちのめされて不幸な人。
それでいい。
でもだれもそんなの読みたくないのかな。
それでもわたしはそれでいい。
その現実を迎えて、
それでも美しさのちょっとだけ
垣間見えるような。
そこは三島由紀夫の「憂国」は素晴らしかった。
あんな真理の書き方はほかにない。
割とこう生温い相対主義の現代の世の中で、
わたしはきっと手厳しく真理を追究していく
絶対主義的な危うさと頼もしさのある
そんな文学と思想に惹かれている。
美しいものは、正しいのではないか、
正しくなくても美しいのなら
それは何かの辻褄の合う片方なのではないか。
その片方は醜いのか?
否、きっともう片方も相応に美しい。
人の惹かれる美しさの中に罪があるなら
人そのものが罪なのではないか。
美しさとは聡明で、純粋で、相愛。
こうして浮かんでは消えていく、
思想の渦と心理の端っこに今日も翻弄されて
わたしはおたまじゃくしだった頃の自分を
また今日も少しずつ忘れていく。
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