『氷柱の声』を読んで
梅雨の明けた真夏の夜に読了した。エアコンの冷房が効いた部屋で、YouTubeから穏やかな音楽を流しながら。静かに読み終わり、静かに胸がぎゅっとなり、「あぁ、」と誰に返事したでもない声が、吐き出す息と共に出た。とても心に残る物語を書いてくれたな、とぼんやり思った。
第165回芥川賞候補作という帯が巻かれたこの作品、『氷柱の声』は、くどうれいんさんの初の小説である。それまでの作品には、『わたしを空腹にしないほうがいい』や、『うたうおばけ』、歌集『水中で口笛』がある。どれも私の本棚にささっている。
今作は、東日本大震災で被災した高校生の女の子、伊智花を主人公に物語が進んでいく。これは書評でもなく感想で、私が感じたことや思ったことを長々と書き連ねていくものなので、「それでもいいよ」という方は以降読み進めてくだされば幸です。
忘れてしまったことは同じ温度で抱きしめることはできない。忘れたことにあとから意味がついたとき、それがドラマチックになってしまうことが、おれは怖い。だから何かを言いたいような気がする。おれはずっと何かを言いたくてたまらないような気がする。でも、今でも蝋燭を目の前にすると、おれはしゃがみ込むことしかできない。 『氷柱の声』54p 本文より引用
私が震災のことを知ったのはニュースだった。海水は青ではなく泥水の色をして、信じられない速さで家を、車を、電信柱を飲み込んでいて、汚い濁流はいつまでもいつまでも画面いっぱいに映し出されていた。ドキドキしていたのか、緊迫していたのか、あの頃の私は、映画のワンシーンのようなその出来事に、頭がうまく追いついていなくて、家に取り残された人が必死で手を振っているところを、現場のなんとかさんが中継で、ヘリコプターの上から観ながら何か言っていた。ヘリコプターに救助され吊られて上がっていくところも観た。その後もニュースをつけるたびに、救助しているところや捜索している人たち、避難所に集まっている被災者の方達がたくさん映されていた。倒壊してぐちゃぐちゃになった、家だったものがそこらじゅうに散らばっていた映像も、津波の映像も何度も流されていた。1年、365日の中の3月11日には黙祷をする、という行事が、私の生活に加わった。
私にとって東日本大震災のすべてが、映像と文章と、第三者からの説明のみで得たものだった。「少しでも多くの人が無事であってほしい」と思ったり、死者の数を見ることが苦しかったりもした。本当に届いたのかきちんと役立たれたのかわからない募金をしたり、支援物資を送ったりもした。そこに嘘はなかったけれど、すべてが私の生活の「外」で起こった話で、どこか現実味がなくて、だけど感受性だけは働いていて、悲しかったり苦しかったりはした。何か一つでもできることがあればという気持ちはあった。ほとんど無力に等しかったと思う。
震災を経験していない私にとって、この本の中で語られているものが、私があの頃テレビで見た映像と重なるような、重ならないような感覚で、物語の中に出てくる自衛隊の人、ボランティアの人、若い女性記者の人、美術の審査員、よりも、もっと外側の人なんだと気づいた時、被災者の方達のその後の生活など、何も知らないに等しくて、想像もできていないのに、「元の生活に戻りたいだろうな」とか「辛くても前に向いて進んでいってるんだろうな」とか「みんな頑張ってるんよな」みたいな、ことを、普通に考えていた自分が、猛烈に恥ずかしくなったし、申し訳なくなったりした。「そんなことわざわざ言われなくても(私たちは生きているのに)」というのが伝わった。
私がもし、いつか、なんらかの形で、被災者として生きていくことになった時、私は何を経験し、生きるのだろう。生きているのかもわからないし、未来は全くわからないけれど、同じように誰かから心配されたり、情けをかけられたり、希望を捨てないでと言われたり、励まし続けてくれる人がいたとして、どういう気持ちになるだろう。伊智花やトーミみたいに、うんざりするかもしれないし、もっと違う気持ちになるかもしれない。だけど、どんなふうに言われたり、描かれたり、捉えられたりしても、生きていくことに変わりはないし、日々は続いていくのだろう。そこだけはわかる。そして、現に、被災された多くの人たちは、誰かに慰められるためでも、優遇されるためでもなく、失ったり失わなかったりしても、そこに生活があるかぎり、同じように生きている。当たり前に、人生を歩んでいる。そんな被災された人の日々を、会話を、ありのままにくどうさんは書いてくれている。伊智花の絵の才能やその素晴らしさは、震災が起きる前から存在していたのに、震災後になると、絵の素晴らしさではなく、「震災で不遇な経験をしてもなお素晴らしい絵を頑張って描いている高校生」に焦点がいくように周りの人が雰囲気作りをして、絵の評価ではなくその人自身についての評価になっていたため、伊智花の絵が無冠のものとなったシーンには、いろんな感情が渦巻いた。そしてこう言ったことはきっと、私たちには知らないだけで、いろんなところで起こっていたのかもしれない。悲しみの度合い、喪失の度合いで人が選ばれる、評価される。震災という意味が付け加えられてしまうことで、ドラマチックになってしまうこと。それは確かに怖い、と思った。そして、それこそ不遇だな、とも思った。
くどうさんはあとがきの中で、「被災県在住だが被災者とは言えない」というご自身の立場のことをいつも考えていたとあった。沿岸の方に住んでいなかったので被害が少なかった、失うものがなかった、だから沿岸部の方達の話を聞いて(何も失わなくてごめんなさい)という気持ちになった、という、当事者だけにしか絶対にわからない気持ちを文字にしてくれていた。なんでもそうだけど、物事を経験した時、経験した人にしかわからない気持ちが絶対にあって、どれだけ文才があって事細かに描いたり、文字に起こしたりしても、絶対に本人だけにしかわからない感動とか、感情とか、本人にしか見えていないものがあると思っている。だから読者の私には、文字にされているものから己の知識や感受性を総動員して想像するしかできないのだけれど、計り知れないその気持ちを削りながら、一冊の本にしてくれたことを、感謝したいような、でも、明るい感謝ではなくて、静かな、複雑な、余計なことを言いたくない、ただただ、「この本をずっと大切にしたいと思います」というような、そういう気持ちでいっぱいになった。
だけど、ありきたりにも、励ます気持ちがあったり、「ただ起こったこと」として見て見ぬふりもできなくて、祈りなんて意味がないのかもしれないけど、静かに黙祷をするとか、そういったことをする人間であるということはどうしようもない。ただそれは、私の中だけで留めておきたい。
この本が、被災者の人々と、そうではない人々の、ちょうど中間地点に立ち、どちらのものでもなく、ただ一つの物語として存在し、読者の心と正面から向き合う鏡であったらいいのになと思う。倫理観を問うとか、そういうことではなくって、語れないと思っていたこと、言葉にできなかったことをこうして勇気を出して本にしてくれた人がいて、それを読む人間がいて、大きな感動を生むでもなく、ただ静かに静かに、私は事実を受け止め、震災があったことを知る人として生きていくだけなのだと思う。
この小説を読めて、よかった。そして、この小説を読んだ後に、歌集『水中で口笛』を読むと、歌のイメージが深まるような気がする。後でゆっくり読もう。
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