老いへの嘆きを聞きながら、「死の受容」について考える
重いテーマですみません。
内容はそんなに重くないです。。
1か月半ぶりに実家に帰省しています。
そこで感じたことを書いてみたいと思います。
母の現状
私の母は86歳で、青森で一人暮らしをしています。
前回から1か月半しか経っていませんが、
地元で高校の同窓会があったため、また帰省しています。
母は、60代半ばからの「骨粗しょう症」、
ここ数年の「首下がり症」に加え、
最近「パーキンソン病」の診断がつきました。
服薬を始めて、少し症状は良くなっているようですが、
本人は、動作がのろい、眠いとしきりに「不具合」を訴えます。
1時間のうち45分は横になっていますが、
食事をしたり、トイレに行ったり、家事をしたりの、
日常生活が「出来ない」わけではありません。
頭ははっきりしていて、耳も良い。
内臓は丈夫で、私と同じくらい食べます。
嚥下も問題なく、歯も丈夫で、固いものでもなんでも食べられます。
歳をとるということは
先日母と私は、ご近所さん(母と同年配)と、
娘さん(私と同年配)の車に同乗させてもらいました。
母とご近所さんでまたまた始まる「体の具合の悪い話」。
何かをする気力が起きない。
手先が思うように動かない。
しんどくて起きていられない。
膝や腰が痛くて、まともに歩けない。
出掛ける先は病院しかないし、
病院通いをしたところでよくなるわけでもない。
「よくならない」ことへのいら立ち。
刻々と老いていく体を、どこまでも嘆き続けます。
母は86歳で、ご近所さんは84歳です。
「そんなもんなんじゃないの?」
私が言うと、
「病院の先生にも、誰に言ってもそう言われる。
あなたたちにはわからない。」と。
「わかってほしい」気持ちに応えてあげられないのは、
こちらの優しさが足りないのでしょうね(-_-;)
死の受容
皆さんは、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階」というのを、
聞いたことはありますか?
がんなどで余命を宣告された人がこのような段階を踏む、ということです。
(実際には段階を行き来したりと、通りいっぺんではないようです)
老いへの嘆き
がんを患ったり、何かの病気で死線をさまよったりした人が、
「がんになってよかった」「人生観が変わった」というのを、
見聞きしますよね。
これは、5段階目「受容」への到達を意味するのでしょうね。
母やご近所さんの「老いへの嘆き」は、「否認と孤立」です。
何年も何年も、「老いへの嘆き」を続けるのを見てきました。
5段階への過程は、明確な「死」を前にしなければ、
進まないものでしょうか?
「人はいつか必ず死ぬ」
86歳ともなれば、そんなに遠い話ではないはずです。
「年齢や寿命」ということだけでは、
「死」を認識するにはこと足りないのでしょうか?
「老い」と「死」は繋がっている。
なのに、両者の間には大きな溝がありますね。
「死をタブー視」し、
「死」に向き合うことを避ける社会で生きてきた、
「死生観のなさ」をあらわしていないでしょうか?
それとも、「こんなはずはない」と思い続けることは、
生きたい気力の表れで、良いことなのでしょうか。
日々「出来なくなっていく」ことに目を向けるより、
確実に終わりの迫っている残りの時間で、
「出来ること」を考えたら良いんじゃないか。
そう思ってしまうのは、「わかってない」からなのでしょうか。
私たちは?
私自身は、出来るものなら
来るべき「老い」を遠ざける努力は最大限しつつ、
最後は受け入れる。
そして、人生を「ああよかった」と思える。
そんな心境へ到達したいものだなと思います。
母と私は約30歳差です。
人がいかに長生きで、
人がいかに老いるか。
この事実を、まるで初めて知るかのように
「嘆き続ける」高齢者の姿を、私たちは見ています。
30年後、私たちは同じことを繰り返すのでしょうか?
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