学校の当たり前を問い直すー「学芸会」を大人と子どもが「探究」できた3つの理由とは
4年前、私がまだ公立小学校で働いていた時の話。
多くの小学校に学芸会という行事がある。
先生が台本を決め、先生が配役を決め、先生が指導し、先生が会場設営をし、先生がプログラムを作り、先生が係活動を仕切り、先生が地域や保護者にお知らせをし、先生が達成感を味わう。結局先生が一番アクティブ。そんな行事になってはいないだろうか。
いや、上の文章の「学芸会」を他の言葉に置き換えてみたら?学校で行われる多くの活動の主語が「先生」になってはいないだろうか。
「学芸会は何のため」を問い直す
2017年の初夏、ある公立小学校で開かれた会議。議題は秋に行われる予定の学芸会について。その会議はいわゆるフツーの学校のそれとは少し違っていた。その会は「学芸会って何のためにやるのか」を全職員で対話することからスタートした。外部のファシリテーターが会を進行する。近隣の小学校の先生もその「対話の会」を見学に来ている。数時間にわたって交わされる熱い議論。結果、「下学年と上学年に分かれて新しい学芸会を行いたい」と主張する先生たちと、「最高学年として6年生には単独で劇づくりを行わせてあげたい」という、二つの意見が対立する形で時間切れとなり終了した。
対立は対話で乗り越える!「混乱期」を楽しめ!
その後が面白かった。対話を諦めない先生たちは、次の対話の場を設定する。(先生たちは春に職場内でのチームビルディングについて「タックマンモデル」から学んでいたことも大きかった!「私たち絶賛混乱期だね〜」なんて話してたから)
夏休みの最終週に設定された「学芸会について語る会」。年間計画になくても必要に応じて柔軟に話し合いの場を設定できるのもこの学校の魅力だ。2つのグループに分かれて付箋を使って意見を整理するワークショップが行われた。およそ3時間後、その年の学芸会は下学年と上学年に分かれて行うことに決定した。
子どもたちがつくる、子どもたちの学芸会
9月に入り、子どもたちと「学芸会」についてイチから話し合う。生活科と総合的な学習の時間を使った大きなワールドオリエンテーションの単元「学芸会をつくろう」が始まった。
話し合いの結果、下学年から2つの劇が、上学年からも同じく2つの劇が候補にあがった。下学年は絵本「ともだちや」を劇化するグループとみんなが大好きな映画「SING」をモチーフにするグループ。上学年は学芸会のど定番、劇団四季の「エルコスの祈り」を演じるグループと、自分たちでイチから台本を作る「学校の怪談」グループに別れることになった。どのグループに所属するかを決めるのはもちろん子どもたち自身。
探究的に「学芸会」を作っていく子どもたち
ここからの3ヶ月は魔法のような時間だった。公立小学校の学芸会をここまで子どもたちが主体的に作った例は見たことも聞いたこともない。自ら何度も会議を設定し台本を検討する子どもたち。どちらかというとあまり学業には熱心ではない子が何日もかけてオリジナルの台本を完成させた「学校の怪談」グループ。練習を繰り返すたびにどんどんセリフを自分たちで自由に変えていく「ともだちや」グループ。休み時間に図書室の一角で音源を編集する子どもたち。学芸会の運営に必要な係活動をプロジェクト化し超主体的に活動する子どもたち。休み時間に図工室で大道具と小道具作りに夢中で取り組む子どもたち。子どもたちが中心となって進める会場設営。会場の掲示物を必要に応じて自分たちで作り、適切な場所を考えて貼っていく。そこには多くの学校でよく見られる「先生による指示」「先生によってしごかれて劇のクオリティをあげる姿」は一切見られない。先生はあくまで黒子役。主役が子どもの学芸会。
公立学校でもここまでできた3つの理由
この取り組みはあくまで普通の公立学校での出来事。学習指導要領や法令で定められた授業時数の枠の中での実践である。これを可能にしたポイントは何だったのか。私は以下の3つが決定的に重要だったのだと思う。まず、そもそも何のための行事かを先生たちが問い直したこと。次に、意見の対立を対話で乗り越えたこと。(チームビルディングの過程で起こる「混乱期」を先生たちが楽しんですらいたこと)そして、子どもたちの探究を支える大人のメンタリティを常に変化させていったこと。
2017年の夏から秋の終わりにかけて、ある離島の小さな小学校で起きた出来事。それは私にとって「とてつもなく大きな出来事」であった。