「子ども中心」の教育って?
教育界に20年以上身を置いています。
今回は最近教育界わいで起こっている「対立」について考えていきます。
だいぶ聞き飽きた感がありますが、あえて書き出してみると、
教師主導 vs 子ども中心
教師が管理 vs 子どもの主体性
教える教育 vs 教えない教育
伝統的な一斉指導 vs 個別最適化された指導
詰め込み型教育 vs 自主性や興味関心を基礎とする教育
…こんなところでしょうか。
単純な二項対立の構図になってしまうことが多いのは残念ですが…。
全国各地で従来の一斉指導型の教育ではないいわゆる「新しいタイプの学校」が続々と産声を上げていますが、(私もそこに身を置いていますが…)実際にその内部で行われている教育はどの程度の質になっているのでしょうか。
多くの場合においてその実践レベルはまだまだ発展途上であると考えています。
人は歴史から学ばなければいけません。
今からちょうど100年前に大正自由教育運動(新教育運動)が起こりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大正自由教育運動
それまでの画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動が、この大正時代に、折からの大正デモクラシーの風潮を追い風にして広まった。
という大きな教育のうねりのことです。なんだか、最近の教育の流れと酷似しているように思いませんか?
中野光『大正自由教育の研究』 (1968年刊)は、大正自由教育運動の代表的な研究書の一つです。中野はその中で、
主として大正期において、それまでの『臣民教育』が特徴とした画一主義的な注入教授、権力的なとりしまり主義を特徴とする訓練に対して、子どもの自発性・個性を尊重しようとした自由主義的な教育改造を大正自由教育=新教育運動とも呼ばれている」(10頁)
と論じています。これって、デジャブ?と思ってしまうのは私だけでしょうか。
最初に「対立」について書きましたが、その「対立」は大正時代にすでに起こっていたものと同じ性格であったと思いませんか?私が最近現場で考えていることは、大正時代に乗り越えられたなかったもの(限界や問題点)は現代において「新しいタイプの学校」が乗り越えられずに試行錯誤しているものと本質において共通しているのではないかということです。
余談ですが「子ども中心主義」を展開したデューイは1920年代の後半に自ら「行き過ぎた子ども中心主義の批判」を行ないました。これって非常に示唆的じゃないかなとも考えるのです。(デューイは1930年にも『ニュー・リバ プリック』誌で再度「子ども中心主義」を批判しました)
私は、デューイが100年前に危惧した「行き過ぎた子ども中心主義の弊害」を学ぶこと、そして日本において「大正自由教育運動」で乗り越えられなかったものを学ぶことが大きなヒントになると考えています。
「子ども中心ってそんなに簡単には具現化できないよな」ということです。
目下の私の問いは、
昨今の新しい学校における教育実践が、既存の画一的な一斉指導型の教育の限界を十分に克服し、乗り越えるものでありえるのだろうか。(まだまだそのレベルじゃないと思うな…)いわゆる「新しいタイプの学校」が旧教育の「限界」を克服しつる「質」を担保できているだろうか。(全然できていない気がするな…)
というのものです。2021年はこの問いを探究することがライフワークになりそうです。
100年後に、
…平成の終わりから令和の時代にかけて、それまでの画一的な一斉指導に対して様々な自由教育運動が一時的に盛り上がりました。しかし、いずれの教育方法も旧来の教育の質を超えるという壁を乗り越えられずに失敗に終わりました…
という教育史が語りつがれないように。