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数年で消えた巨大都市名護屋と「黄金の茶室」|桃山三都展
試験を終えて…
金曜の夜、放送大学の単位認定試験の最後1科目を受け終わりました。
やったー!
終わったー!
自由だ―――!!!
…という、大学生を通り越して高校生のような解放感と高揚感で週末を迎え、その勢いのまま翌土曜日に2025年初の美術館へ行ってきました。
晴れて自由の身(※次学期が始まるまでは)となり、読みたい本も溜まっているけれどまずは終了間近の美術展に行くべし!ということで、いざ、佐賀県立美術館で1月29日まで開催されている『桃山三都ー京・大坂・肥前名護屋ー』展へ。
「ん…?肥前名護屋…?」
と思われた方もいらっしゃることでしょう。京・大坂とくれば江戸じゃないの?と。わたしもこの企画展名を見たときには
「いや、三都にぶっこんで来るとは大きく出たな」
と正直思いました。
名護屋(なごや)とは、現在の佐賀県唐津市鎮西町の地名です。なぜそんなところが京(天子のおわす都)と大坂(天下人秀吉の城があり政治と経済の中心)と並んで「三都」のひとつに数えられるのか?(※一般的にそう言われているわけではなく、あくまでこの展覧会のキャッチフレーズです)
それは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の出兵拠点として名護屋城が築かれ、全国の大名たちがその地に結集したからです。
佐賀県立名護屋城博物館のHPには、次のように簡潔に紹介されています。
●名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
●1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
●城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
●周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
●現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。
その巨大さは名護屋を訪れた関東の武将をして「城石垣は京都にも勝り」「天守なども聚楽第にも勝る」と言わせ、「京、大坂、堺の者たちが皆やってきているので望みのものは何でも手に入る」と慨嘆せしめるもので、まるで首都が移転したような賑わいだったそうです。(同じく名護屋城博物館HPより)
20万人という人数については諸説あるようですが、突如として「巨大都市」が出現し、文禄・慶長の役の終結とともに幻のように消えた、ということは言えるでしょう。最近の研究では名護屋城が機能していたのは実際にはもっと短く、4年程度だったという見方もあるようです。慶長の役(1597年2月~98年11月)では島津勢は平戸から、毛利勢は博多から出兵した記録があり、朝鮮から退去する際にも博多に引き上げているそう。なのでその頃には名護屋の役割は終わっていたのかもしれません。
ただ桃山時代の数年間、日本中の英雄豪傑が集っていた都市だったということは紛れもない事実。ちなみに名護屋の場所は、佐賀県から玄界灘に突き出した突端のところです。
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名護屋の先の洋上にあるのが壱岐、その先に対馬、そして朝鮮半島があります。
ちなみにわたしは同じ県内でも南の方在住なので、北の突端にある名護屋城には遠くて一度も行ったことがありません。行ってみたいとはずっと思っているのですが、何せ車の運転が苦手すぎて、、、
佐賀県立美術館へ
そんな苦手な車を運転して佐賀市まで行って来ました。試験が終わって気分が高揚している今しかない!という感じ。目的地の佐賀県立美術館に行くのは昨年の『山下清』展以来7ヶ月ぶりくらいです。
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佐賀県立美術館・博物館(逆光…)
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二つの建物は回廊でつながっている
撮りながら思ったんですけど、わたしどうやら建物を撮るのが絶望的に苦手みたいです…
建築を理解していないのでどこをどう撮っていいの皆目かわからない。
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展覧会では秀吉を中心に桃山時代にまつわる書状や屏風、ご当地佐賀にちなんだ掛け軸や刀剣などが展示されていました。メインビジュアルとなっている「黄金の茶室」と最後の方のデジタル復元されたコーナー以外は写真撮影禁止だったので、印象に残った展示物をいくつか文章でご紹介。
「島津家文書」の『高麗入日記』(重要文化財)は島津家の家臣が綴ったもので(家臣の名前を忘れてしまいました。メモ用紙持って行ってたのに!)、殿様が名護屋入りした後、蹴鞠をしたり茶席に呼ばれたり、という名護屋での日常の様子がうかがえるものでした。
同じく「島津家文書」の『高麗国出陣人数帳』(国宝)は1595年正月の文書で、関白秀次が総大将として出馬するにあたっての陣立てを記したもので、そうそうたる武将の名が列記されています。ただこれは同年7月に秀次が蟄居先の高野山で切腹したことにより立ち消えになったため、「幻のオーダー」ということになります。
佐賀とかかわりのある展示物の中では、何といっても狩野山雪の『猿猴図』!
ニホンザルというよりも、ナマケモノみを感じる愛らしいフォルムに、ズキュンと射抜かれました。グッズがあればほしいくらい!
画像がないか探していたところ、トーハクのブログで過去に詳しく紹介されていたのを見つけました。ぜひ読んでそのかわいさを味わってほしい!
狩野山雪は京狩野の絵師なのですが、肥前国出身(母が松浦氏)ということでいくつかの作品が展示されていました。山雪の名前と作品をここで初めて知ったのですが、この猿猴図のインパクトが強すぎて…いやぁかわいい。。。
あとは『菊桐紋蒔絵風呂道具』
鍋島直茂(佐賀藩祖)から孫の小城藩主鍋島元茂に譲られた風呂道具類で、慶長2年(1597)、豊臣秀吉の鍋島邸(大坂玉造)への御成の際に誂えられたと伝わっているそうです。湯桶や盥、風呂桶(人間が入るサイズ)にいたるまで蒔絵が施されており、嫁入りの化粧道具とかならいざ知らずこんな日用品にまで蒔絵を施すなんて奢侈の極みだな、と思いました。
こうした、桃山文化の爛熟期を思わせる展示がある一方で、ところどころに「戦争の悲惨さ」を訴えるような解説がいくつかあったのが目を引きました。例えば『大阪夏之陣図屏風』(複製)では、人物の描き込み(人混み苦手なわたしには人酔いしそうなほどビッシリと人物が描き込まれていました)についての解説とともに、戦乱から逃れて淀川に飛び込む町人や泳いで逃げる女性たちの姿にもフォーカスし「戦争で苦しむのはいつも庶民」というようなことが書かれていました。鍋島勝茂宛ての通称〔鼻請取状〕のところにも同じような趣旨の記述がされており、現代の世界情勢を反映してのことだと思います。
さて、今特別展の目玉とも言えるのが黄金の茶室(複製)
普段は名護屋城博物館に展示されていますが、今回初めて解体してこちらに移設・展示されたそうです。
この茶室が初めて史料に登場するのは、秀吉が関白となった天正13(1585)年のこと。その後、京都の御所や大坂城などで使用されています。
そして天正20(1592)年、名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用しています。
博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が記した名護屋城での茶会の記録「宗湛日記」によると、茶室は三畳で、柱や敷居・鴨居や壁、障子の骨・板もすべて金、障子には赤い紋紗(紋を織り出した薄い絹布)が張られ、畳表は猩々緋(しょうじょうひ / 鮮やかな深紅色)だったと伝わっています。
もともと当時も解体して移設できるタイプだったのですね。
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意外とこじんまりしています。茶室なのだから当然と言えば当然ですが。
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それだけに金と赤のインパクトが強い
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美しいかと問われると「う~ん??」ですが、インパクトは絶大。権力の誇示という意味ではこれ以上なくわかりやすい。外国からの使節など文化を共有しない人でも、一目で「この人はとんでもない権力者だ」と思わせることができます。当時の人も度肝を抜かれたでしょうね。秀吉の時代は日本各地で金・銀が湧くように採れた時代。そこに秀吉という人物がカチリとハマった結果のひとつの形がこの茶室に表れています。
朝鮮で功を挙げた将がその褒美として秀吉からこの金の茶室に招かれ、その親族(兄だったかな?)が「金の茶室に呼ばれるとか、メッチャうらやましいんですけど!」(※意訳)という意味のことを書いて送った書状も展示されていました。
秀吉としてはそういう政治的な「装置」としてこの茶室を使っていて、その効果は確かにあったということがうかがえます。ここでお茶をいただきたいかと言われるとそれは別問題ですが。
特別展以外にも、佐賀県出身の洋画家岡田三郎助の作品を展示したOKADA-ROOMという常設展示室があり、こちらは無料で入場可能。なのに誰もいませんでした…
岡田三郎助(おかだ・さぶろうすけ、1869~1939)
佐賀県出身で、上品で優美な女性像を得意とし、「美人画の岡田」「女性像の岡田」と称された洋画家。
幼少時に父親に伴われて上京、東京・麹町の鍋島侯邸内に暮らす。同郷の百武兼行の油彩画を見て感銘を受け、西洋画風に陰影をつけた絵を描くようになる。明治30年、西洋画研究を目的とした文部省第1回留学生として渡仏。帰国後は東京美術学校教授となる。また、文展開設後は審査委員を務めるなど官展の代表作家として活躍。帝国美術院会員、帝室技芸員を歴任し、昭和12年には第1回文化勲章を受章した。
岡田三郎助の東京のアトリエが美術館・博物館の敷地内に移設されているので、そちらにも行ってきました。
彫刻の並んだ回廊を通って、お隣の県立博物館へ。
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博物館のカフェの脇から外に出たところにアトリエがありました。(貸し切りイベント時以外は入場可能。入場は無料です)
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明治末期ごろに建てられたアトリエは、岡田の死後親交の深かった辻永に継承され、その後辻家の人々によって保存されてきましたが、辻家から佐賀県に譲渡の申し出があり、解体・移設。平成30年4月1日公開開始されました。
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そちらは飲食物の持ち込みOKとのこと
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岡田の当時のアトリエの様子を再現したものを勝手にイメージしていたのですがそうではなかったようです。壁の色合いなど、ものすごく女子受けしそうでしたが、当時からこの感じだったのでしょうか?
奥田三郎助アトリエを出ると、道路をはさんだ向かい側には立派な石垣が続いています。
お向かいにあるのは佐賀城本丸歴史館
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今回こちらには立ち寄りませんでしたが、入場無料なのでおすすめです!
ちなみにお昼は博物館内にあるカフェでいただきました。
佐賀市のご当地グルメシシリアンライス
わたしは人生で3回目くらいです。
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ざっくりいうと、ごはんの上に甘辛く味付けしたお肉とサラダがのった洋風丼もの、というイメージです。以前食べたものは温玉がのっていましたが、こちらはのっておらず、お店によってのせる具材はそれぞれのようです。
個人的にはシシリアンライスには結構当たり外れがあると思っていて、あつあつのごはんの上に具材をのせていくわけなんですが、お店によっては具材全てを冷蔵庫で保存しているところもあるわけです。サラダも冷たい、味付き肉も冷たい、温玉も冷たい、マヨネーズも冷たいとなると、運ばれてきた時点でごはんも相当ぬるくなっており、個人的にはそれが好みに合わなくて…
ちなみにこちらのシシリアンライスは、お肉(若楠ポークというブランド豚)がちゃんとあつあつの状態でのせてあったので、届いた時にはまだあったかい状態で食べることができました。
シシリアンライスで腹ごしらえをした後、歩いてとある神社にお参りしてきたのですが、そこがとにかく巨木の宝庫だったのでまた改めて別の記事として書こうと思います。