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宗教的観念が飽和していた中世末期

文化の読書会

ホイジンガ『中世の秋』(堀越孝一訳)X 牧歌ふうの生のイメージ XI 死のイメージ XII すべての聖なるものをイメージにあらわすこと

<要旨;XIIの内容に絞った>

すべて聖なるものをイメージにあらわしたい、信心にかかわるあらゆる想念になにか完結したかたちを与え、はっきりと頭のなかに刻まれるようにしたいーーこの欲求は制御しがたく、このイメージ形成への志向が強かったため、すべての聖なるものは硬直し、外面化する危険にたえず晒された。

無限のものを有限性のうちにひきこもうとする試み、奇蹟をその構成分子に分解しようとするプロセスーー後期中世の思考の特質は、ここにある。

ブルクハルト『世界史的省察』が述べるように、「宗教が、いわば生活全体と絡み合うならば、生活の方も、間違いなく宗教に影響を及ぼし、宗教にいわば絡みつくだろう。だが、そうなると、そのような文化の内的からみあいは、宗教の側になんの益ももたらさず、かえって危険をもたらすことになる」のである。

宗教的観念が飽和していたのだ。

結果、霊の意識を刺激するはずのものが、現世的なものになってしまった。卓越した聖人においても、例外ではなかったのだーー霊の緊張のゆるむその時々に、神への親しみに慣れきってしまい、意識的に、故意に信仰を汚す。

生活全体が宗教に侵されていた。聖俗の境が失われると、日常生活が聖性の高みに持ち上げられ、聖なるものが日頃の見慣れたものへと押し下げられる。

例えば、ラテン語の「ミステリウム」「ミステリウムス」がフランス語の「ミステール」と一緒になることで、必然的に「神秘」の意味合いを弱め、日常の言葉になる。

現世の権勢の畏怖を表すに、神崇拝の言葉を使う。あるいは宗教用語が愛の表現にも用いられる。

教会へ出かけるのは社会生活の重要な一要素であり、きれいな衣服をみせびらかし、地位身分をひけらかし、宮廷風作法や礼儀正しさを競うー巡礼も、愛の楽しみの場であったのだ。

また、神ではなく聖者を崇拝する、というのもこの系列にある現象だった。聖者は民衆の宗教意識にあって、そのようなリアリティ、どのような表現価値をもっていたのだろうかーー内にある情念の流れは、キリストとマリアに向けられたが、日々の生活のやさしく率直な宗教感情は、聖者崇拝に集まって美しく結晶した。

実利性もある現象だった。聖者の名前が、特定の病気と密接に結びついたことも例に挙げられるー聖ハドリアヌスペスト、といった具合に。聖者の怒りが疾病をひき起こすと考えられ、したがって、ペストの信者は熱心に礼拝したのだー宗教の疾病保険である。

15世紀いっぱいまでは、聖者の服装はモードと歩調を合わせていたのだ。修辞学調の衣を聖者にまとわせるようになったのは、その後でである。

こういったことだ。

敬虔な信心と敬虔な人々をあざ笑い、人々は好んで「自由思想家」を気どり、信仰を冗談にしてしまうといった傾向が中世の末期にはあった。末期の守護天使への熱狂的崇拝ー超自然のものへの直接の感触ーも、こりかたまった聖者崇拝への無意識な反動であったかもしれない。

また、中世全体を通じて、霊的緊張が突然に断ち切られ、無信仰になる例も多かった。教会教義の忌避ではなく、宗教の飽和に対する反動であった。

よって、15世紀の宗教改革者たちが批判の対象としたのは、不信心ないし迷信的傾向ではなく、信仰そのものが、教会そのものが荷を負い過ぎている事態であった。民衆との生活との接触を断って、聖者たちが何段階も高い位置によじのぼったが、教会がそう望んだのである。

<わかったこと>

XIIの内容が刺激的だったので、要旨はここに絞った。

騎士道の生まれた動機、そこにあった「嘘」。これが宗教においても同様にあてはまっていた。

中世は宗教の時代と称されやすいが、信心深く人々が生活を送るとは、必ずしも教会に通う、敬虔で静かな日常生活風景を意味するのではなかった。

この章を読んで、ぼくの頭のなかにあった構図に駒が嵌り始めた感がある。

それもこれも、文学作品を読まないと見えてこないと痛感。教会の、美術館にあるこの時代の絵画だけをみていると大いに勘違いするところだ。

あれは、宗教観念を民衆に植え付けるものだったのね、実態は逆だったんじゃない、と思った(ちゃんとぼくが絵画を読み切れていないがためであったかもしれないので、今後、あの時代の美術作品をよく見てみよう)。

この延長線上で思えるのは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロに代表させるルネサンス期絵画の「バランスのとれた正統性」が中世末期に求められたものとしてあったがゆえに、逆にルネサンスのすべてが分かりにくくなったという点だ。

マンテーニャの絵画をあの時代の全体の潮流として見ないと、ルネサンス像が歪すぎるとの危険性は指摘しておきたい。

3点、現代の問題と絡めたい。

一つ目は、ポリティカルコレクトネスの「破綻」が生じつつあるこの7-8年の動向と中世末期とを重ねてみてしまう。

二つ目、合理的思考の限界とそれを自覚した時の次の歩の取り方、この問題への参考になる。アート作品ー特に絵画ーを分析的に扱うことの問題も含め、である。

三つ目、聖俗のところ。今年100年をむかえる民藝は聖俗を論じるレベルにあるものではない。が、日常生活で使われる無名の職人のものが高みにあるものとして評価される構図に肯定すべき部分と危惧を含む部分、その両方へ配慮した場合の逡巡がある。このテーマを考えるに中世末期の問題を参照できないか?とは思う。

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冒頭の写真はブレラ美術館の展示作品の一部。Gnetile e Giovanni Bellini (Venezia 1432 circa -1507 Venezia 1430 circa -1516)により描かれたコンスタンティノープル。



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