古代ギリシャの人たちにとっての鳥肉をアリストテレスは語る。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻 思考の徳と正しい道理
納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。
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今回は特に第9章の「すぐれた熟慮」に焦点をあてる。
熟慮のよさとは、「思慮」が真なる仕方で把握している目的、こうした目的を実現をするのに役立つような事柄に即した正しさ、である。「思慮」のベストな状態を指している。それでは、アリストテレスは「思慮」をどのように位置付けているのか?
人の魂には、理性と理性以外の2つの部分がある。更に理性は、「他の仕方ではありえない諸原理をもつものを考察」と「他の仕方でありうる考察」に分かれ、前者が学問的知識、後者が「思慮」になる。
アリストテレスは、魂が真理に到達する状態として5つ挙げている。「技術(テクネー)」「学問的知識(エピステーメ)」「思慮(プロネーシス)」「知恵(ソピア)」「知性(ヌース)」。
これらの5つのうちの一つが、「思慮」なのだ。よく生きること全体のために何が良いのか?を考えることだ。道理をそなえた魂の真なる状態であり、人間にかかわることで熟慮の対象となるものごとにかかわり、かつ、普遍と個別を対象にする。
なぜ、個別も対象とするのか?「思慮」は行為にかかわるものであり、行為とは個別的な事柄にかかわるからである。よって個別的知識をよりそなえることが求められるが、同時に「統括的なもの(アルキテクトニケー)」(政治にかかわる「思慮」)が考えられる。
(人が軽い肉が消化に良く、それが健康的であることを知っていても、どんな種類の肉が軽いかについて無知ならば、健康をつくりだすことはできない。鳥肉が健康的であることを知っている人なら、いっそううまく健康を作り出せるはずだ)。
個人にかかわる思慮と、個人にかかわらない思慮があり、後者には「家政術(オイコノミアー)」「立法術」「政治術」がある。
思慮は「最終的なもの」にかかわる。「最終的なもの」とは、学問的知識の対象ではなく、図形分析の結果、「最終的なもの」が三角形であることを近知覚するような場合の知覚の対象だ。
「熟慮すること」は、「探求すること」の一種である。人は既に知っていることは探求しないが、熟慮する人は探求し、理知的に思考する。また、巧みな推測ではない。熟慮は長い時間をかける。熟慮を善きものにするような正しさこそ、熟慮のよさであり、その正しさは善に到達しうる。
熟慮のよさとは、有益さに即した正しさ、すなわち、しかるべきもの、しかるべき仕方、そしてしかるべき時にかかわる正しさである。
<わかったこと>
この巻、健康の例が頻出する。
上記の「人が軽い肉が消化に良く、それが健康的であることを知っていても、どんな種類の肉が軽いかについて無知ならば、健康をつくりだすことはできない。鳥肉が健康的であることを知っている人なら、いっそううまく健康を作り出せるはずだ」だけでない。
「医術や体育術の知識を身につけても、それだけで、我々がいっそうよく行為できるようになりはしないのである」や「我々は健康であることを望むけれども、それにもかかわらず、わざわざ医術を学びはしないのである」といったフレーズである。
普遍性と個別性を考えるにあたり、健康と健康方法、それに医学といった領域を例にとることが、いかに説得性をまし、かつ時代を越えた言葉になりうる、ということがよくわかる。
古代ギリシャの人たちも、鳥肉を健康の面から選択していた事実は、かなり面白い想像ができそう。
ここの鳥って、なんの鳥なのか?ニワトリじゃないだろうな?と思ってウィキでニワトリを調べたら、次の記述が!
冒頭の写真はシチリアの街角でのシーン©Ken Anzai