恥辱
まえがき
今年もこの季節がやってきた。
今年も発症してしまった。
ハヤカワepi文庫の季節。
2024
今年はジョン・マクスウェル・クッツェー『恥辱』である。
Disgrace / J.M.Coetzee (1999)
鴻巣友季子 訳
もちろん僕はクッツェーがどんな作家かは全然知らなかった。
書店に行くと『ポーランドの人』という彼の最新作が売っているのが目につく。白水社のツイッターでも何度も流れてくるあの緑の表紙の本だ。「ポーランド」や「クッツェー」というカタカナが頭に残る。何度も目にしてだんだん気になってくる。ラジオと同じシステムである。昔、僕はよくラジオを聴いていた。すると知らない曲が流れてくる。知っているアーティストの宇宙初オンエアの新曲とか、名前だけ聴いたことのあるアーティストの曲とかが流れてくる。勉強しながら何気なく聴いている。そしてその曲は何度も現れる。今月のヘビーローテーションです。その曲は僕の中で存在感を増す。街ナカでその曲を耳にしたとき、どこかで聴いたことある曲だと反応する。視界の片隅に映っていた輪郭のはっきりしない影が、徐々に鮮明な像になっていく。最初は、変な声だなよくわからん歌詞だなと思っていた。何度も聴いているとだんだん僕の体に馴染んでくる。やがて、ラジオからイントロが流れた瞬間に、よしきたやったぜとテンションが上っている。待ってました。今日も流れてきたぜ。そうやって僕に曲を印象づける。リツイート機能で。書店に足を運ぶことで。クッツェーが気になる。クッツェーという言葉の響きが気になる。ポーランドの人なのかな。クッツェーて『恥辱』の人だよね。確か。
頭の中の読みたいepi文庫リストに名を連ねているが、『恥辱』は4番目ぐらいだった。カズオ・イシグロ(のどれか)かマーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』かアニー・エルノー『嫉妬/事件』を2024年は読もうと思っていた。特にアニー・エルノーはノーベル賞も取った今話題の作家だし、文庫本コーナーに平積みされていて気にならないわけもなかった。でも、僕の心はだんだん『恥辱』に傾いていった。漢字2文字の邦題も気になる。漢字2文字のタイトルに弱い。東野圭吾『変身』とか。川端康成『雪国』とか。『心臓』とか。
そういうわけで2024年は『恥辱』が選ばれた。
醜いおっさんの話
ちなみにクッツェーは南アフリカ出身である。
物語の舞台も南アフリカで、ケープタウンとその東にある農園で物語は展開される。
もちろん僕は南アフリカがどんな国か全然知らなかった。『インビクタス/負けざる者たち』という映画で観たことがある。1979年のF1チャンピオン、ジョディ・シェクターの出身地である。それぐらいしか知らない。そしてそういうことをあまり考えずに読んだ。それは間違いだった。
舞台は南アフリカである。
もちろんアパルトヘイトのこととかを考えながら読んだほうがいいのである。白人による人種隔離政策。それが撤廃されたあとの世界。
主人公であるデヴィッド・ラウリーは現代文学の教授だったがリストラのあおりを受け、コミュニケーション学部とやら(原文ママ)の准教授をやっている。彼は52歳。2度の離婚を経験し娘もいる。そんな彼は娼婦と懇ろになろうとしている。なりたいと思っている。もちろんそんな関係が実を結ぶはずもないのに、娼婦を追いかける。自分に気があると勘違いしている。向こうは仕事でしているのだし、主人公は52歳である。若い娘が自分に振り向いてくれると思っている。哀れな男である。そして女生徒にまで手を出す始末。あのさぁ……。その女生徒に告発されて大学を追われる。
残念ながら何一つ共感できない。ちんこに脳みそついてるのかなと思わざるを得ない。ここで描かれているのは醜いおっさんの話、だと断じてしまっては文学にはならないけど醜いおっさんの話です。彼は大学教授だった。白人だった。その立場が、地位が崩れていった。それは時代の流れでしかたのないことかもしれない。だがそれを受け入れられない。自分は偉いんだぞという社会が作り出した幻影にすがっている。謎の学部の准教授にさせられてしまった行き場のない怒りがある。傷つけられたプライドを慰めてくれるのは自分を受け入れてくれる若い女だけだ。もちろん受け入れてくれたと思っているのは自分だけなのがこの男の哀れである。性的な暴行を加えた、虐待をしたと訴えられても、同意の上で愛情があったと譲らない主人公。自分の娘より年下の女生徒とうまくいくと考える方がおかしいという正常な判断ができていない。もちろん正常なというのは世間一般の意見でそうじゃない愛の形もあるだろうが。世間はきっとそんなことは許さない。読者もきっとこのおっさん終わってんなと思うことだろう。査問会に呼び出されても「罪を認める」と一点張りで、周りの意見を聞こうともしない。悪かった、罪を認めるよ、これ以上なにもないだろ、という開き直った態度を崩さない。訴えられている状況に憤慨しているし、早くこの状況から抜け出したいという思いもあるだろう。そういう複雑な人間の機微をセリフや態度によって描いている。ブッカー賞受賞。
ケープの東
大学を追われた主人公は娘の暮らす田舎の農園へ移る。娘はアフリカの隣人とそれなりにうまく、仲良く暮らしている。そんなある日強盗に襲われる。主人公は怪我を負い娘はレイプされる。
この展開は、罪を犯した主人公に与えられた罰のようだった。でも彼はどうしてこんな目に合うんだと罰を受け入れようとしない。というか罪の意識がないのだ。それがこの男に救いがない点だ。娘がレイプされたことが赦せない。自分は娘より若い女生徒を犯したのに? どの口が言っているんだ? 大学の准教授にせまられて断ることはできなかっただろう。同意の上だったからなんで復讐されないといけないと思っているだろう。仮に向こうにその気があっても自分の娘より年下の女に手を出すという行為が罪深いと気づけない。だから彼には永久に理解できない。しかも隣人は助けてくれない。もしかしたらこいつが強盗の首謀者かもしれない。娘は妊娠して子を産むという。強盗の子を。こんなところから離れようと説得するも娘は譲らない。ここにはここの生活がある。私はここで生活している。
舞台は南アフリカである。
白人が支配していた時代は終わったのだ。その支配に対する罰、復讐を描いているようで、主人公はやはりそれを受け入れられない。
神の愛に見放されて罪を犯したカインはエデンの東に追放された。だがこの物語の主人公は罪だとわかっていない。
何度も贖罪の機会は与えられてきた。贖罪を迫っているような気さえする。安楽死させられる運命の犬に同情しているくせに、自分はそちら側だと思えない。自分は(あるいは白人は)搾取する側で、搾取される側になるなんて思っていない。
ことあるごとにバイロンの話を持ち出し、オペラを作曲しようとしている。それがいけないとは思わない。彼はそういう社会で育ってそういう知識も教養もある。田舎の農民とは違う。でも、田舎の農園にいるなら田舎の生活をしなければならない。そこにいることすら恥辱だと感じている。なんて傲慢な主人公だろうと思うと同時に、都会の暮らしに慣れてしまった自分が今さら田舎で暮らせるか? と問われると躊躇せざるを得ない。田舎や都会がいいとか悪いとかではなく、大きく環境が変わることに人はそんなにすぐに順応できない。主人公の苛立ちを少しだけわかってしまうのである。その点に関して、主人公を憐れむ資格が読者にどれほどあるだろうか。
白人社会も、都会と田舎の対比も、それこそが人類の恥辱なのではないだろうか。そんなものを生んでしまった人類はもっと恥辱を感じた方がいいのではないか。そういう意図が、メッセージがこの作品に含まれているかはわからない。考えすぎかもしれない。でもこの作品を読まなければ考えすぎることもないのである。
魅力
南アフリカ出身の作家の南アフリカが舞台の作品なんて、積極的に読もうとは思わない。あまりにも未知すぎて。でもこうしてハヤカワepi文庫に収録されているなら手にとってみようという気になる。様々な国の様々な文学が読めるのが、ハヤカワepi文庫の魅力である。また一つ知らない世界を知ることができる。
そして解説を読んで、理解が深まると同時に、フィリップ・ロスの『ヒューマン・ステイン』に言及していて僕の世界はつながる。『ヒューマン・ステイン』は未読だけれど、映画版の『白いカラス』は世界で一番好きな映画です。問題があって大学を追われるという境遇が重なる。そういう背景を下敷きにした作品だから『恥辱』にも読む前からどこかで惹かれていたのかもしれない。
あとがき
べつに年の初め以外にもハヤカワepi文庫を読んでもいいけれど、1月1日に向けて僕はモチベーションを高めているのである。でもこのままだと1年に1冊しか基本的にepi文庫を読めない。それが人生のモチベーションならいいことかもしれない。でもすぐれた文芸にもっと触れたいと思う。だからそろそろ解禁してもいいんじゃないだろうか。読んだことのある作家ぐらいは。『1984年』は読んだことあるから『動物農場』を今年の途中で読んでもいいんじゃないか。『千の輝く太陽』も『青い眼がほしい』も。
来年はどんな国のどんな小説を読もうかなと思って、そうして2024年が始まるのです。
「犬のように」
終
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