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課題図書全部読む【小学校高学年の部】
小学校高学年の部(5、6年生)応募要項
・本文1,200字以内
※その他の応募要項は他の部と同様。小学校低学年の部を参照ください。
昨日のこと
ぼくはうそをついた / 西村すぐり・作 中島花野・絵 (ポプラ社)
現代の小学生は老人から戦争の話を直接聞くことも難しい年代になってしまっているのかとしみじみ思った。作者あとがきにも書いてあるけれど、時代設定をもっと現在に近くしてしまうと戦争のことを語れる人はもっと減っているし、年老いてしまって語ることも難しい状態でもおかしくないので現実的ではない。作中の時代設定の二〇〇五年にしても二〇年前で、小学生の読者は携帯電話のストラップという概念に戸惑うことだろう。二〇年前なんて大昔のようでもあり、つい昨日のことのようでもある。僕が小学生の頃(これは大昔だろうか)、戦争を経験した老人たちはまだまだ元気で直接話を聞いたものだ。その人たちにしても戦争なんてほんの昨日のことのようだっただろうか。
いずれにしろ、時の流れ早い。だからといって忘れてはならないこともあるのだ。主人公にとってはこの夏の思い出も忘れることはないだろう。語り継ぐべきものもそうでないものもある。主人公たちには戦争の悲しみをまっすぐに受け取れるキレイな心のままで成長してほしい。
この物語では、広島に住む少年と少女が祖父たちから原爆の話を聞く。広島で生まれ育った人たちは誰しもそういう経験があるのだろうか。原爆ドームも近くにあって、子供だけで見学に行くこともできる。僕が小学生だったとしても一人でそんな場所を訪れる勇気はなかっただろう。聞きたくなくても聞かされる戦争の話にうんざりしていたかもしれない。コイツラが戦争で死ねばよかったのになんて思ってしまう子供だっただろう。でも生きているから語れるのだ。語りたくなくて口を閉ざしている人もきっと大勢いるだろう。それを、直接話してくれるということはとても貴重なことのように思う。ありがたいことのように思う。今ではそう思える。この作品のように、誰もが丁寧に教えてくれるとは限らないし、そんな話したくないと怒鳴られることもあるだろうからなおのことそう思う。訊いている方も、話したくないならいいよと小学生らしからぬ物言いで、そういう言い方ができる人を、しっかりした人だと、少し尊敬の念を僕なんかは抱いた。そんな少年時代が苦しい。小学生のときの僕は、年上のお姉さんに話しかけるなんてもちろんできなかった。この物語のように恋の予感めいたものは妄想の中にしかなかった。
主人公はとある人の心を救うために嘘をつく。それは作品のタイトルだけではわからない優しい嘘だった。小学生の僕はそんな高度な概念を理解しなかっただろう。ヒロインの女の子が髪を切った本当の理由を誰にも明かさず、作中で説明していなかったように思うけれど、それもどういう意味か想像する必要がある。
物語を通して主人公たちの行動の意味を理解できるということは読書の重要な要素で、子供たちは成長することができるであろう。
(1200字)
開かない扉の前で
ドアのむこうの国へのパスポート / トンケ・ドラフト&リンデルト・クロムハウト・作 リンデ・ファース・絵 西村由美・訳 (岩波書店)
なんて素敵な物語なんだ。
ドアなんてハリボテで、本当は向こうなんて存在しないんじゃないかと思いながら読んだ。でも、閉ざされた扉の向こうになにがあるか、子供たちの想像力を掻き立てる素晴らしい物語だった。
序文に、本を読むのはドアを開けるのと似ていると書いてある。ドアのむこうの未知の世界はドアを開けないとわからない。本も読まないと、ページをめくらないとどんな世界が待っているかわからない。どんな物語が待っているか想像してみようと促している素敵な言葉だった。
その言葉は、読書だけに当てはまらないだろう。行ったことのない場所、観たことのない映画、聴いたことのない音楽。全部同じだ。想像することの楽しさもあれば難しさもある。想像通りかもしれないし、いい意味でも悪い意味でも裏切られるかもしれない。そして他人の気持ちを想像することも大切だろう。相手はどう思うだろう、どう思っているだろう。この物語の主人公はどうだろう。人には様々な事情や立場があるのだから、思ったことをそのまま口に出したら、人を傷つけてしまうかもしれない。ネットで炎上してしまうかもしれない。そういう大人にならないためにも、想像する力は必要なのだ。読書感想文という夏休みの宿題は、そんな力を養うためにも必要なのだと改めて思った。
誰もがそんな力を持っているわけではない。そうなれない大人もいっぱいいる。そうならないために、この物語では引っ込み思案の主人公を、他人とうまく馴染めないクラスのみんなを、成長させようと大人たちが知恵を絞っていて素敵な世界だった。僕にもそんな先生がいたらもう少し違った人生だったかな。僕を導いてくれたのは音楽と文学だった。生身の人間のぬくもりは知らない。おかげで大人は信用できなかった。いつも出席番号が最後の僕を気にかけてくれたりはしない。三月の終わりには、お誕生日おめでとう係に存在をなかったことにされる。無口で喋るのが得意じゃなくても誰も気に留めない。通信簿には思いやりがあると書かれていた。それは他人が怖いから、他人の目が気になるからかもしれない。孤独な少年は自分の殻に引きこもっていた。僕をドアの向こうに連れて行ってくれる存在はどこにもいなかった。ドアがあるなんてそもそも知らなかった。
この物語では、子供たちが自分でなぞなぞビザを作る。ドアの向こうを想像するだけでなく、自分でものを創造するフェーズに入る。もちろんこの読書感想文も創造するフェーズだ。ある意味では物語の中の子供たちの追体験をしているのだ。自分ならこういうビザを作ると思う、というような感想文が書かれるのだろう。あるいは物語の最後の展開に拍子抜けしたとかいう感想かもしれない。それでいいんだ。感想文を生み出すことが大事なことなのだ。
(1185字)
救いのかたち
図書館がくれた宝物 / ケイト・アルバス・作 櫛田理絵・訳 (徳間書店)
小学生向けの課題図書にしておくのはもったいない名作だった。
第二次大戦中のイギリスが舞台。イギリスの疎開事情なんて知らないので興味深い。日本人は日本の戦時中の話を聞いて被害者面しがちだが、戦争というのはお互いに被害者であり加害者であるのだ。本書に描かれている時期に日本はドイツやイタリアと同盟を結んでいたのだ。日本が直接空襲したわけではないにせよ、イギリスは敵側だったわけで、そちら側の人達にも思いを馳せなければならない。そして子供たちにはなんの非もない。ただそこに生まれて暮らしていただけだ。
本が好きで、心の拠り所となっている子供たちが愛らしくもあり苦しくもある。でも避難所があるというのはいいことだと思う。本に救われるのは、どこの国でも同じなのだ。それと同時に、本を買うお金も時間もない人たちもいて、それとは関係なく本なんて読まないという文化資本の乏しい人々もいる。その点では主人公たちは恵まれている。それらの人々を丁寧に描くことで、子供たちは社会問題を知る。本書はその契機となる。戦時中だからという時代背景とは関係なく、社会に問題は存在している。人々の偏見も描かれていて、小学生向けの課題図書としては重たい話な気もする。しかしそれは、本書を読んだ子供たちが他人を思いやれる心優しい人間になれるようにという願いが込められているのだろう。もちろん事はそう簡単ではない。しかも戦時中なので、旦那がナチスだと疑われている場合は、スパイだと思われてもしかたがない。そういうパターンの物語だってあり得るのだから。描かれなかった物語は長男のウィリアムが話す親の物語と同じように紡いでいけばいい。それが救いのかたちを取ることもある。
本書のテーマのひとつに家族とはなにかというものがある。小学生には難しいテーマだと思う。でもそれが偏見なのだ。まるで我がことのように感じる子もいるだろう。自分は恵まれていると気づく子もいるだろう。世の中にはいろんな事情があることに直面して、自分にできることを考えるだろう。なにもできやしないと嘆くこともあるだろう。いや、気づかなくても考えなくても嘆かなくてもいい。心のどこかに、物語に描かれた情景が描かれていればいい。いつの日かその絵を思い出す日があるだろう。それが子供たちが本を読むことの意味の一端であると信じている。
本書の子供たちが読んでいる本に僕はほとんど触れたことがなくて、そういうものを読んで育ちたかったと思う。『赤毛のアン』も『小公女』も読んだことがない。ディズニーの映画も観たことがない。児童向けの名作を読んで育たなかったから、読んで育った子供たちとは心に描かれている絵が違う。それがいいことか悪いことかの判別はつかないが、それを今知ったのだから、これから、この物語に登場する本たちを読めばいい。
(1196字)
あこがれ
海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞 / 田沢五月・文 (国土社)
二〇一一年以降に生まれている今の小学生はなにを思うだろうか。子供の頃、学校新聞的なものを書いた記憶が僕にもある。なにを書けばいいかわからなくて言葉をひねり出した。なんでこんなことせなあかんねんと思いながら。でもそれは物事を考えるということで、必要な行為だったのかもしれない。当時の自分がどんな文章を書いていたか読んでみたくもある。そんな懐かしさと恥ずかしさがある。
非常時になにかしなきゃと行動する人に対して、僕は冷めた目で見てしまうタイプだ。そんな終わっている大人になってはいけないと思うけれど、子供の頃からそうだった。
なにはしゃいでいるんだこいつらと思っていた。ここぞとばかりに自分の役割を演じる劇場型の人間になれない。勝手に盛り上がっちゃってダサいと思う。そうやって心を閉ざした少年であることにどこか酔いしれていたのかもしれない。演じているのは自分の方だったのかもしれない。
そんな僕に、パフォーマンスじゃなく自然に声をかけてくれる人というのが世の中にはいて、きっとそういうものに憧れていた。尊敬していた。あんなやつほっとこうぜじゃなくて、僕なんかにも優しくしてくれるなんて感動した。僕はそういうタイプだった。
本書の少年少女たちの中にも同じタイプの子供はいただろう。描かれている子供たちの中にもいたかもしれない。しかし東北の田舎町の小さな学校だからという本書の環境においては、そうならない可能性を感じてどこか憧れを感じてしまう。人数が少ないと、僕のような人間にも顧みられてしまう。そしてなにもしていない自分を恥ずかしく思う。自主的になにかをしようと申し出るのは得意ではないかもしれないけれど、誰かに頼まれたら素直に手伝うだろう。自分から行動してもどうせ足手まといになるだけだからといつも逃げていた。卑怯な子供だった。
そういうふうに想像してしまうのは、そういう状況に自分が陥っていないからである。神戸の地震のときも、僕の住んでいる地域はほとんど被害は受けなかった。台風で避難したこともない。非日常に憧れているから、そこにいる自分を想像してしまうのだ。不謹慎な行為だろう。現地の人の気持ちも知らないで。そんな自分を恥じた。
伝統を大事に受け継ぐ姿勢と、子供ながらにやれることをした本書の子供たちに敬意を払う。やはり僕は伝統行事なんてものにもうんざりだった。やがて時とともに伝統も失われていくだろう。そういう現在を提示して本書は終わる。災害の記憶も風化する。震災後に生まれた子供たちは話に聞く地震や津波を現実だと理解できるだろうか。
たとえ時代が変わっても懐かしさと恥ずかしさは僕の中に同居し続けるだろう。人々の心の中だけに残してしまわないように、人は本を書いて本を読むのだ。そう願いたい。
(1199字)
ひとこと
『図書館がくれた宝物』がマジ名作で、この本と出会えたので、課題図書全部読むをやってよかった。
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