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坂本龍一"async"から考える「音楽」と「音」の境界線

◼︎"async"というアルバム
"async"というアルバムは、2017年に発表された坂本龍一さん(以下敬称略)によるアルバムで、直訳すると「非同期」という意味になります。
2023年に発売された坂本龍一と分子生物学者の福岡伸一さん(以下敬称略)の対談をまとめた『音楽と生命』の中で、このアルバムのタイトルについてこう述べられています。

『async』のタイトルの「a」は否定の接頭語で、「sync」、つまり「synchronization」=同期、調和、あるいは再現性という、この世界を統べる秩序を否定するものでした。(福岡伸一)

『音楽と生命』p.186

さらに坂本龍一は音楽を作ることに対して以下のような見解を述べています。

ピュシスとしての脳を持ち、非線形的で、時間軸がなく、秩序が管理されていない音楽というものを作れないかとずっと考え続けています。

『音楽と生命』p.186

ピュシスという言葉は聞きなれない言葉ですが、"physis"つまり「自然」を意味し、理性(ロゴス)と対立するものです。対談の中ではしきりに、このピュシスとロゴスの対立について言及されています。
ロゴスに関しては両者とも否定的でもっと自然に近い状態(非線形的で、時間軸がなく、秩序が管理されていない)の音楽を作れないかという話をしています。”async”はその状態の音楽を目指す過程で生まれたアルバムということです。

◼︎秩序化されていない音楽とは何か
このアルバム、つまり秩序化されていない音楽については、音楽と音の境界線を溶かすことに大きな意味があるのではないかと考えます。
いつもの普段私たちが耳にする音楽は、基本的にノイズを排除し、リズムも正確で音楽が音楽として独立して存在しています。そのため不要な音や予期しない音は拒否されます。その意味で、音楽と音の境界線を明確に引いてるのが通常の音楽であると考えられます。イヤホンのノイズキャンセリング機能などが発達しているのは、できるだけ外部からの音を音楽の中に侵入させないためと考えることもできそうです。
では、音楽と音の境界線を溶かしていくことはどういうことでしょうか。簡単に言えば、その曲の中に予期されていない音が入り込んでくることを拒まないということです。

環境の中で生まれている音を取り込み、自然発生的に生まれるものと人工的なメロディを融合した音楽像

◼︎音楽と音が融合する音楽像「開かれた音楽」
『音楽と生命』の中で坂本龍一は、自然界の音や楽器以前の「もの」を擦ったり叩いたりした音を収集したと述べています。こういった、楽器から出る音だけではない音を音楽に組み込むこと自体が、音楽と音の融合ですが、私が感じたのはもっと日常のレベルでの融合です。
”async”を聴いているときにふと、周囲の環境音と”async”の曲の境界線がなくなっているよな感覚になりました。遠くから聞こえるエンジンの低い音と高い音、靴とアスファルトが擦れる音、工事中に響く金属と石がぶつかる音、目の見えない人が体に着けている鈴の音…。そういった音が曲と混ざり、どれが元々収録されている音で、どれが今自分の周囲から聞こえてきている音なのかが不明確になります。
これが音楽と音が融合する音楽像であり、これまでの音楽が環境音を排除してく「閉じていく音楽」だとすれば、周囲の環境音を取り込みながら一回性というオーラを纏いながら立ち現れる「開かれた音楽」なのではないかと考えます。

ベンヤミンは、機械的複製技術の誕生によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代、芸術作品が「いま・ここ」に結びつきながら一回的に現象する際の特有の輝きを、アウラという概念で表し、それが失われている問題について論じました。

『音楽と生命』p.35

”ASYNCーREMODELS”としてカバーアルバムも出ていますが、上記の意味で根本的に異質です。(カバーアルバムも素晴らしいです。)

◼︎単なる対立ではく、デコンストルクシオンするために
デコンストルクシオンとは哲学者のジャック・デリダが提唱した「脱構築」という考え方です。詳細は前の私の記事から。

「音楽か音か」「ピュシスかロゴスか」という二者択一的な考え方ではなく、合わせて新たなものを作り出せるかどうかが重要な点だと考えます。二者択一だと結局今までの構造と変わりません。

自然(ピュシス)をできるだけありのままに記述する新しい言葉(ロゴス)

『音楽と生命』p.10

加えて、ロゴスで説明できなければニューエイジの世界になってしまうということも述べています。ただそこにあるものをつまんでくるだけではダメだということですね。
我々がロゴスを使ってしまうのはどうしても仕方がないので、ピュシスにできるだけ近いロゴスを探すという取り組みに脱構築があると考えます。これは、音楽だけでなく、福岡伸一の提唱する動的平衡という考えにも当てはまります。

◼︎私たちはどの境界線を曖昧にできるのか
2つのものの境界を曖昧にして新たなものを生み出す。私は、あなたは、どの境界線を揺るがすことができるのでしょうか。
自分が作った音楽の中に環境音を許容するということは、「作曲者」である特権を一部放棄して、不確実性に身を委ねる行為であるとも言えます。自分が作ってきた円の中に不確実性が入り込んでくることを許容する。自分が作るものもまた、どうしようもない庭であると認識することが足掛かりにできそうです。

シグナルとして取り出されたものではない、本来のノイズとしてのピュシスの場所に降りていくためには、客観的な観察者であることをいったんやめて、ピュシスのノイズの中に内部観察者として入っていかないといけないのだと思います。

『音楽と生命』p.78

◼︎最後に
「これまでの音楽」と「周囲の環境音を含めて一回性を持つ音楽」の違いやそれを表す端的な言葉とは何か?坂本龍一の言う、「ミュージックの要素」とは何か?などこの記事を書きながら、自分で腑に落ちないことが多々ありました。
基本的には、腑に落ちた状態から論理構成を考えて記事を書くようにしているのですが、今回は、腑に落ちていない状態でどういう結論になるのかも運任せで書き切った初めての記事となります。
坂本龍一さんと福岡伸一さんの対談についても、言っていることはわかるが、自分には全く届かない存在であり、こうやって分かった気になって書くというのもはばかられて中々記事が書けないでいました。でも、昨日久しぶりに会った友人が間接的に引き金を引いてくれた感じがして久しぶりに更新してみました。
関係ないけど、福岡伸一さんのHPがめっちゃかっこいい。


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