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プラトンが語る魂の再生神話

■人間の行動を司る根本原理とは?

私たち人間の行動を司る根本原理とは何だろう?
人間に、動物と同じ意味の「本能」と呼ばれるものがあるのか、極めて疑わしい。あったとしても、「本能」という行動原理で、人間のすべてを説明できるとはとうてい思えない。
いわゆる生存本能としての「食欲」「性欲」「睡眠欲」といったものは、満たされなければ前面に出るだろうが、いったん満たされてしまえば、私たちの意識はいつまでもそうした基本的な欲求のレベルにとどまっているとは思えない。私たちの意識レベルは、いつまでも狩猟採集生活の時代にはない。
では、私たちの行動を司る根本原理とは何か?

肉体は、便宜上の器、かりそめの乗り物であることを、私たちは何となく感覚的にわかっている。なぜなら、肉体が私たちの意思に逆らって勝手に動くわけではないからだ。もしそういうことがあるとしたら、私たちはそれを「病」と呼ぶ。ある特殊な薬物の影響下にあるようなケースも、人間というシステムの機能不全の一種ととらえることができる。
肉体でなければ、心か? しかし心は、常に激しく揺れ動き、答えなど出せないように見える。
心は、やれDNAだの、やれ成育環境だの、やれ現実のしがらみだの、という細々した条件(言い訳)に左右されすぎている。
それでも私たちは目の前の問題に答えを出す。その答えは、単に心と現実との妥協の産物なのか?
心は相変わらず首をかしげながらも、体は決めたことに従って動くしかない。
しかし、時に私たちは、心にとっても体にとっても過酷な選択をしたりする。
何がそう決めさせたのか?
「心と体」という二元論ですべてを説明しようとしたとたん、私たちは「因果論」の甘い罠に絡めとられ、私たちの人生は被害者・犠牲者の物語へと変貌してしまう。
「私の人生は、どんな親と環境のもとに生まれてきたかで、だいたいのところ決まってしまうではないか?」
私の人生は、私のものではないのか。私の人生は、誰か他の人の人生の単なる脇役、舞台設定、小道具のひとつでしかないのか。私の身体は、私の心は、誰かが過去に行ったことの結果でしかないのか。
いや、私の人生は、断じてそんなものではない。私の人生は私のものだ。私たちはもっと主体的に、自由に、思うがまま、(ある意味、運命に逆らってまでも)自分のオリジナルの人生を生きられるはずだ。
何かが作用している、心でも体でもない何かが。何かが、与えられた運命に逆らおうとしている・・・。

さて、そこで私たちはいよいよ「魂」の問題に深く分け入っていく。私たちの生を、その根本から動かし、決定づける原理としての「魂」・・・。

■人間=心+体+魂

まず、次のようなテーゼから始めよう。

「肉体は船、心は舵、魂は羅針盤である」

「私」は肉体という船に乗って、人生航路を旅している。その船をコントロールしているのは心という名の舵だ。では、この船はどこへ向かっているのか? それを知っているのは「魂」という名の羅針盤である。

では、ここで仮に、次のような方程式を提示しておこう。

人間=心+体+魂
魂=人間―心―体

つまり魂とは、人間から心と体を取り除いて、まだあとに残る何か、ということだ。

■魂はどのように転生するのか

このような定義をしたうえで、魂の正体について、もっとも端的かつ具体的に描いてくれている神話があるので、それをまずご紹介しておこう。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、その大著「国家」を、ある物語を詳しく語ることで締めくくっている。
その物語を以下に要約しよう。

『パンピュリア族の血筋をうけるアルメニオスの子である勇敢な戦士エルは、戦争で命を落とす。10日ののち、他の戦死者とともに収容されたとき、彼の屍体だけ腐敗していなかったため、埋葬されずに家まで運ばれ、二日後にまさに野辺送りの火にふされようとしたとき、彼は薪の上で生き返った。そして、あの世で見てきたことを語る。つまりエルの物語は、今で言う「臨死体験」だ。
彼の魂は肉体を離れたのち、他の多くの魂とともに、ある不思議な場所に到着する。そこには、大地に2つ、天にも2つ、合計4つの穴が開いていた。その天と地の間には裁判官がいて、やってくる者たちを次々に裁いては、正しい人々を天に開いた一方の穴から天国に送り込み、不正な人々を地に開いた一方の穴から地獄へ送り込んでいた。
エルはそこで裁きを免れ、死後の世界の報告者として、そこで行われることをよく見聞きするよう言われる。そこで彼がよく見ていると、地に開いたもう一方の穴からは、汚れとほこりにまみれた魂たちが上がってきていた。天に開いたもう一方の穴からは、別の魂が浄らかな姿で下りてきていた。長い旅路を終えたそれらの魂たちは、互いに挨拶を交わし、それぞれ天国と地獄で経験したことを語り合うのである。
さて、天と地から集まった魂たちは、それぞれ7日間をそこで過ごすと、8日目に再び旅に出る。そして旅立ち後4日目に到達した地点で、彼らは天と地の全体を貫いて伸びる光の柱を目にする。さらに1日の行程を進むと、その光に到着した。その光の中央に立つと、天空から光の綱の両端が伸びてきているのが見えた。その綱の端からは、アナンケ(必然)の女神の紡錘が伸びていて、それによってすべての天空が回転するようになっていた。その紡錘はコマのように軸とはずみ車で構成されていて、そのはずみ車は、軸棒を中心にして、ちょうど大きな椀の中に一回り小さな椀がぴったり収まっているようにそれぞれ大きさも厚みも輝きや色も違う8つの車が重なり合って層をなしている。岩波文庫版の『国家』の訳注によると、これらのはずみ車は太陽系の惑星および恒星の軌道を表し、厚みは軌道同士の間隔を表しているという。
紡錘はアナンケの女神の膝の中で回転している。その一つ一つの輪の上にはセイレーン(その歌声で聞く者の心を魅惑する妖女たち)が乗っていて、さらに、アナンケの三人の娘たち(ラケシス、クロト、アトロポス)が、等しい間隔をおいて輪になり、王座に腰をおろしている。この三人は、モイラ(運命の女神)たちであり、セイレーンたちの奏でる音楽に合わせて、ラケシスは過ぎ去ったことを、クロトは現在のことを、アトロポスは未来のことを、歌にうたっていた。
そして、クロト(現在)は、間をおいては紡錘の外側の回る輪に右の手をかけて、その回転をたすけ、アトロポス(未来)も同様に、内側の輪に左手をかけて、その回転をたすけている。ラケシス(過去)は、左右それぞれの手でそれぞれの輪に交互に触れていた。つまり紡錘の輪の外側が現在を、内側が未来を表し、過去はその両方にかかわっているということか。これは、現在の視点から過去を媒体として未来を見透かすという考えの現れだろうか。
さて、魂たちはそこに到着すると、ただちにラケシス(過去)のところへ行くように命じられる。そこで神官が、次のような神の意を魂たちに伝える。

〇まず、死によって終わる周期(つまり現世での生涯)が再び始まるということ。
〇運命を導くダイモーン(守護霊)を、自分自身で選ぶということ。
〇これからクジ(番号札)を配るが、そのクジの順番で、さまざまな生涯の見本の中から、自分でひとつの生涯を選ぶということ。選択の責任は自分にあるのであり、神にはいかなる責任もないということ。

そうして神官は、すべての者に向けてクジを投げ、それぞれの者は自分のところに落ちたクジを拾う。ただしエルだけは除外された。
次に神官は、そこにいる者の数よりはるかに多いさまざまな生涯の見本を彼らの前に広げて見せた。
1番のクジを引き当てた者は、最大の独裁者の生涯を選んだ。しかし、そこには自分の子どもたちを殺して食らうことや、その他数々の禍いが運命として含まれていることに気づいた彼は、自分の選択を嘆き、神官の忠告を無視して、その責を自分に帰することなく、運命と自分のダイモーンを責めた。
この者は天上の旅路を終えてやってきた者の一人だったが、前世において、よく秩序づけられた国制の中で生涯を過ごしたおかげで、真の知を追求する(哲学する)ことなく、ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。
概して、天上から来た者たちにこの手のしくじりをしでかす者が多く、一方、地下からやってきた者たちの多くは、自分も苦しみ、他人の苦しみも目の当たりにしてきたので、いい加減な選び方はしなかった。
いずれにしろ、生涯の選択はたいていの場合前世の習慣によって左右されていた。かつてオルペウスのものだった魂は、女たちに殺されたため、女の腹から生まれるのを嫌い、白鳥の生涯を選んだ。節度を知らぬつわものの戦士であったアイアスの魂はライオンの人生を選び、また駿足の若き女走者であったアタランテは男性の競技者の人生を選んだ。最後の順番を引いたオデュッセウスの魂は、前世の苦難が身にしみていて、名を求める野心も涸れ果てていたので、厄介事のない一私人の生涯が片隅に顧みられずにあったのを見つけて選び、「1番のクジが当たっていたとしても自分はこの生涯を選んだだろう」と言った。
さて、こうしてともかくすべての魂たちが生涯を選び終えると、みなクジの順番に整列してラケシス(過去)のもとに赴いた。この女神は、これからの生涯を見守って、選び取られた運命を成就させるために、先にそれぞれが選んだダイモーンをそれぞれの者につけてやった。
次に、ダイモーンは魂をクロト(現在)のもとへと導き、その手が紡錘の輪を回している下へ連れて行って、各人がクジ引きの上で選んだ運命を、この女神のもとで改めて確実なものとした(クロトには「紡錘でよじる」の意味があるため、それぞれの人生に独自の複雑さを加えた、の意味か?)。
今度は、アトロポス(未来)の紡ぎの席へ連れて行って、運命の糸を、取り返しのつかぬ不変のものとした(アトロポスには「曲げることのできない、変化しない」の意味がある)。
そこから魂は、後ろを振り返ることなくアナンケの玉座(膝)の下へ連れて行かれた。
つまり選び取られた生涯は、それぞれ過去・現在・未来を司る女神のもとで、その順に批准され、最後に三女神の母であるアナンケ(必然の女神)によって批准されたわけである。
最後に、魂たちは忘却(レーテー)の野と呼ばれる炎熱の平原を渡る。喉を枯らした魂たちは、放念(アメレース)の河の水を、決められた量だけ飲まされるのだが、自制のきかない者たちはその量を超えて飲んだ。それぞれの者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。そして、みなが寝静まった真夜中に雷鳴がとどろき、大地がゆらぎ、魂たちは流星のようにそれぞれの新しい生へと運び去られた。
エルだけは河の水を飲むのを禁じられていて、気がつくと、火葬の薪の上に横たわっていたという。』

これがエルの物語の概略である。

エルの神話から (2)

■魂は意図をもって人生を選んでいる

この神話から読み取れる教訓は、以下の通り。

〇私たちは、死んで生まれ変わるまでの中間生において、十分な期間を与えられて、自らの前世を顧み、また他の魂たちとも十分な情報交換をして、多くのことを学んでいる。
〇私たちはよく「自分の人生はクジ運が悪い」などと言って、もって生まれた肉体的条件(美貌、運動能力、障害のある・なし、など)、自分の両親(家系、DNA、才能)、生活環境(後天的条件)などを呪ったりする。もちろん多少の運・不運はあるだろうが、実は、どんなにクジ運の悪い人でも、十分な選択肢の中から自分の持ち前に合った生涯を選んでいる。
〇過去も未来も、現在の内側にあり、過去は現在と未来の両方に加担している。
〇自分がどんな生涯を選んだかには、前世の人生が色濃く反映されていて、選択の基準には、前世での教訓に基づいて、ある種の優先順位をつけている(明確な意図をもって様々な条件を選択している)。
〇つまり、今の人生を俯瞰したとき、自分にとって何が「譲れない選択」だったのか、どのような条件をあえて「大目に見た」のかを考えれば、自分の魂の意図がわかるはずだ。
〇それぞれの人生には守護霊がついていて、たとえ本人が忘れていても、守護霊はどんな人生がどんな意図で選び取られたのかを知っている。
〇様々な生涯見本の中から特定のひとつを自分で選んだわけだから、運命はある程度決まっているものの、すべての人生には独自性や複雑さの要素が加味されている(運命には必ず不確定要素がある)。
〇いずれにしろ運命は自分で選んだのであり、その理由を人は忘れているだけだが、その忘れ具合(喉の渇き具合、あるいは欲望の持ち具合)には個人差がある。

このエルの物語をもとに、プラトンは、私たちが「善い生と悪い生とを識別する能力と知識を授けてくれる人を見いだして学べるなら」という条件つきで、次のように述べている。

「それによって、われわれの一人一人は、(さまざまな生涯の見本に含まれる諸条件が)善き生ということに対してどのような関係を持つかを考慮しながら、美しさが貧乏あるいは富といっしょになるとき、またどのような魂の持ち前とともにあるとき、・・・氏素姓の良さ悪さ、私人としてあることと公的な地位にあること、身体の強さ弱さ、物わかりの良さ悪さ、そしてすべてそれに類する魂の先天的ないしは後天的な諸特性が互いに結びつくとき、何を作り出すかを知らなければならぬ。そうすれば、その人は、すべてこれらの事柄を総合して考慮したうえで、もっぱら魂の本性のことに目を向けながら、魂がより不正になるような方向へ導く生涯を、より悪い生涯と呼び、より正しくなるような方向へ導く生涯を、より善い生涯と呼んで、より善い生涯とより悪い生涯との間に選択を行うことができるようになるだろう。そしてほかのことには、いっさい見向きもしないようになるだろう。なぜならば、われわれがすでに見定めたように、そのような選択こそは、生きている者にとっても死んでからのちにも、最もすぐれた選択にほかならないのであるから」(プラトン『国家』岩波文庫より)

プラトンのこの言葉は、これから私たちが見ていこうとする事柄のよい見取り図となるだろう。
一つは、人間とは先天的なものと後天的なものが混然一体となったものであるが、また同時にそれは魂の持ち前とともにある、ということ。
もう一つは、魂の本性を見定めること(自分を深く知ること)が、人間の専心すべき道である、ということ。
そしてもう一つは、より善い生涯とは、自分の見定めによって選択していく結果であり、その結果は次の転生にも影響を与える、ということだ。

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