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悩んではdelete 確信犯にはなれなくて

① わたしの言葉のつくり方

この気持ちをどんな言葉で表現したら、伝わるか?

考えても考えてもピタリとはまる言葉ってなかなかないものです。

実はかく言う私もこの文章を書いているとき、
考えれば考えるほどあまり言葉が出てきていませんし、書けません。

もはや気持ちを乗らせて、直感的に浮かんできた言葉を出てくるだけ出して、Noteを執筆しています。

だから、ほぼアドリブに近い文章なんです。

口語的言葉がほとんどです。

練りに練った言葉で表現することが苦手。

もはや目の前に人がいて、その人に話しているように書いています。

なので、その場その場で書いていくうちに浮かんできた思いを言葉に変換して書いています。

私が勝手に思っていることですが、練りに練った言葉よりそのときの瞬発力で出てきた言葉の方が勝っていると。

その場その場、そのときの気持ち、今の自分のコンディション、
それが一番の言葉の材料のような気がします。

コトコト煮込むビーフシチューではなく、
ものすごく強い火力を使って短時間で仕上げる中華料理の炒め物みたいな。

ただ、私がビーフシチューのような手間暇かけた言葉の料理ができないだけですが…。

逆にそんな文章をかける人は尊敬しています。

自分には到底マネできません。

② 言葉をつくす・つくさない関係


若いときはスキマを言葉で埋めろ!と言われてきました。

ですが、年齢を重ねていくと、余計に誰かと対面して話しているときには、言葉はあまりいらないようで。

逆に沈黙が相手を語らせる。

そして、沈黙が気にならない相手とは、長い付き合いができる。

などなど、言葉で尽くさないものがあるからこそ、人との関係も深みが出る。

そして、今までのお互いの言葉・流れる雰囲気・関係という名のソースを継ぎ足し継ぎ足しで、同じ味のクオリティを保っていく。

甘く、コク深く、程よい酸味にちょっとほろ苦さ。

まんま人生いろいろの味。

言葉を尽くさず、とろ火で静かに時間をかけてこそ、濃いつながりを育むのかもしれません。

反面、火力を使った中華料理もテンポのいい言葉の応酬とサクサクと次へ次へ行く積極的工程が必要です。

(もちろん、中華には煮込みもありますが)

「なにか一品は好みはあるだろう」

この話がダメならこの話はどうだ?」とたくさんの言葉を行き交わせて出してみる。

たくさんの料理が置かれた中華の回転テーブルを回して「これ食べてみて」と薦めるように。

この場合は、大人数だとひっかかりのある好みの話が出やすいですね。

ビーフシチュー的言葉・関係は気持ちの共有の深さを、

中華料理的言葉・関係は気持ちの共有の輪の広さを重点に置いたものでしょう。

次第にこころの引っかかりを持ててくると、お互いに自分のことはさておき相手へ重心が置かれていきます。

それが「興味」「好意」というもの。

③ 前向きに言葉をつむぐために


誰のココロに引っかかりを持てるか?

ふか~く響いてくれるか?は、

私はまったく予想できません。

なので、ウケを狙えません。

狙って書いている時点で、言い方は悪いんですが「媚びを売る」という行為のように思うのです。

(※もちろんそういう人がいてもいいんです。私自身、それができないという話です。確信犯にはなれないのです)

いろんな要素がうまく絡み合って、結果、読んでいただける。

まったく逆でうまく絡み合わず、読んでいただけないことも、そりゃあたくさんあります。

うれしかったり、ああ、ダメだったかと思ったり。

だからといって、そんなに反省はしませんし、脳内でダメなものは消し去ります。

ダメな要素はすべてもちろん書いている私にありますが、

タイミングや読む方のコンディションなど運的要素もあります。

「どうしてダメだったのか?」と悩んで分析するのにエネルギーを使うより、新しい何かを生むエネルギーに使って、いろいろ書いては消してと模索しながら試していた方が断然健全でいいですから。

悩むエネルギーに使うということは、ますます人の「ウケ」を狙うようにもなっていくと私は感じるのです。

わが事業所のみなさんと同じく、ホントに地道にやっていくのみ!

なんです。

【執筆:Oneness A 年がら年中IceCoffee】