ファッションの脱フェティシズム化と第三の皮膚
エシカルやサステナブルを標榜するファッションの動きは、ファッションを脱フェティシズムへと導く一つの道しるべとなる。ファッションという商品は所有を促すことによって商品のフェティシズム化を促すが、それは商品生産の労働に基本的には結びつくものであり、主観的な価値を生み出す。「商品のフェティシズムは、変動する賃金を様々な労働の種類に割り当てることを容易にする。衣料品の供給システムを通して、様々な主観的な価値はさまざまな労働の種類に割り当てられる。」(Brooks、2015:216)しかしながら、その脱フェティシズム化の動きは、ある種の間違った試みによって、様式化され、所有を促すフェティシズム的な性格をまとうものになる。イギリスの経済学者アンドリュー・ブルックスは、著書『Clothing Poverty』の中で「一足買って、一足寄付(buy one, give one)」を標榜するトムスやヴィヴィアン・ウエストウッドのナイロビでのファッションラインの試みを、ある種の「間違った努力」として一蹴している。つまり、ファッションはフェティシズム化されてきたことによって、様式化した欲望(あるいは「大文字の他者」による欲望)によって顧客に購買を促し、過剰な所有を求めてきたのだ。
「物質」としてのファッションを考えてみると、衣服(clothes)を構成する布(cloth)は、「材質のもつ柔らかさと本源的な脆さは人間のどのような関係も変わりやすいものであり、病気、死亡、腐朽という退行過程に影響されやすい人間のもつ弱さをとらえる」(ワイナー&シュナイダー、1995:19)という性質を持つものである。そして、20世紀初頭に始まった芸術分野のムーブメントであるイタリア未来派は衣服やデザインといった応用芸術にも介入していたが、ジャコモ・バッラの「未来派男性服宣言」では、衣服には耐久性がない方が良いとする項目が掲げられている。
産業が隆盛するには、消費が促されなければならないのは自明なように思える。そして、「衣服に耐久性がなければテキスタイル産業を促進することもできる」という主張がファッション産業を活性化させる一方、新たな消費を促進する=廃棄を増やすという問題含みな現象を引き起こす可能性も見逃せない。科学技術がより好みに特化し、好み違い・サイズ違いによる買い間違いの防止や古着市場を活性化する個人・産業レベルの循環型エコノミーに少なからず寄与するはずではあるが、その使用法を人間が倫理的に制御しないかぎりでは、様々な努力の下に生産された衣服の生産システムが人間自身の手によって崩壊させられてしまう危険性も孕んでいる。
ファッションを「物質の現象」ではなく、「現象の物質」と考えてみると、そこには必ず肌との「接触」があることがわかる。身体にとっての衣服とは、長い間「第二の皮膚」という身体に従属するものであるとみなされてきた。これは、マーシャル・マクルーハンが、身体を取り巻く様々な環境を「身体の拡張」とするなか、「衣服は身体の拡張」であるとしたことがその認識を広めたと考えられている。それを受けてモード論において衣服は「第二の皮膚」として定義されているが、さらに鷲田清一は身体こそが「第一の衣服」(鷲田、1991:28)としたことはあまりにも有名である。現代、アバターの着せ替えによって現実のアイテムを選ぶサービスや、ハイブランドの着せ替えアプリ、オンデマンドでカスタムメイドできるサービスが拡大し始めている。これはある種「第三の皮膚=衣服」が発達し始めているとも言えるのではないだろうか。これは現実の接触からかけ離れているように見えるかもしれないが、デバイス等を介在させた「接触」である(実際、操作の際に使用するiPhone等には触覚的な機能が組み込まれている)。
ガエタン・ガシアン・ド・クレランボーは、絹の布への執着ゆえにそれを盗むという女性のみに見られる症候「接触愛好症」を提唱した。また、アイリス・マリオン・セングの「私たちの衣服を取り戻す女性たち」は、メルロ=ポンティの現象学的視点を女性と衣服の関係に持ち込むことで、衣服の触覚性のもとに女性が官能的に衣服を着用していると論じた(Young、1994:204)。これは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが書いたような男性に見られるための女性の衣服ではなく、衣服を通した女性の触覚的経験を重視したものである。触覚という要素はこれまでファッション論で考慮されてこなかったインターフェースという「膜」への接触を重視するものであり、無機的なファッションという現象のレイヤーから脱する手立てになる。そして、触覚はまた、ファッションを(それはフェティシズムに限りなく近く、光と影のような関係を持っているとしても)脱フェティシズム化に導き、ファッションのサステナビリティを考える上での一助になるかもしれない。