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死にたくなる理由

ふとした時に頭に浮かんでくる言葉があります。
それは「死にたい」です。

私の目に映る取り巻きの世界は歪んでいます。いつか私の人生も終わる、という真実に気づいた日から、終わりばかりを考えるようになって息をするのが困難になったような感じがします。死にたいのに毎日息をし続けているという矛盾した自分でありながら、そんな自分を変える必要はあるかということすら、よく分からない日々を送っています。

細くて途切れ途切れで道がよく見えなくなっていても、道を見失ってしまっても、必ず道はちゃんと続いているはずです。遠くの道を見据えるのが難しいのなら、まずは自分の目の前に続いている、小さな光で照らされた道を道しるべとすればいいのかもしれません。

時間はみんなに平等に与えられ、無残にも刻々と流れていきます。思い通りの日々じゃないけど、長い夜も明けて次の夜明けがまた訪れます。細くて脆くて弱い糸でぎりぎり繋がれている状態であっても、移ろう時の流れの中で、自分という存在も徐々に更新されていきます。明日を変えたいなら今日を変えないといけません。でも、それは私にとって、大変なことです…。

私が死にたいと思う理由は、他の人からすると、きっととても些細なことです。忘れ物をしただけ、やるべきことが少しできなかっただけ、人から指摘されただけ、何かを間違えただけ、テストがあるというだけ、幸せそうな人の綺麗な笑顔を見ただけ、…それだけで私は「死にたい」って思います。気にしなくてもいいのに、別に心配しなくても大丈夫なのに、不安になる必要はないとわかっているのに…すぐ絶望して死にたくなります。

どうでもいいことやくだらないことばかりだけど、些細なことで心に棘がいっぱい刺さります。その棘が増えて、結合して太く大きくなって、抜けなくなってしまったような感じになっています。人にわかってもらえない、共感が全然得られない、遠回しに否定される、ということを自覚すると、何にも向き合うことができなくなります。

私は意志薄弱になっていることが多いです。すぐに生きるのをやめたいと思ってしまいます。いつまで生きればいいのかわからないし、ゴールもわからないから、自分の寿命が尽きる最期まで生きる意志が急にプツンと切れて、ものすごく無気力になります。そして「死」に思いを馳せて、どうやって死ねばいいかな…ってよく考えています。自分が苦しまずに死ねる方法を探して、自分が死ぬ未来を想像してしまいます。

日常でも、危険な場面はたくさんあるし、人を死へ至らせる道具は至る所に存在します。一歩踏み出すだけで簡単に死ぬことができます。いつでも簡単に死ぬことができる、そんな自由が私にはあります。その自由だけは、私がこれからも絶対に手放したくないものです。自分を生かすも殺すも自分次第です。でも、私が死んだ時に少しでもいいから悲しんでくれる人がいてくれたらいいな…って思います。人の涙だけでも得られるのなら、別にそれだけでも十分かな…。

私はいつか死ねる日を夢みていたら、もう少しこの世で生きていけるような気がします。心が空っぽの状態で生き続けているようなものです。小さな失敗で自分を責めて、すぐにへこんでしまうけど、それは生きるのに真面目過ぎるだけなのかもしれませんね…。自分を責めすぎずにちゃんと心を落ち着かせることができるようになりたいです。

多分私は何も悪いことはしていないと思います。私は何も悪くないはずなのに、どうして世界はこんなにも歪んで見えてしまうんでしょうか。頑張るのにもう疲れたから、あんまり頑張らずに生きていきたいのに、何をするにも無理しないと行動することができません…。胸が苦しくて息が詰まる毎日です。抜け出せない泥沼にでも溺れているような感覚です。終わりの見えないトンネルを歩いているような感覚です。この感覚は一体何なんでしょうかね…。

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