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お好み焼きをまあるく焼きたい。そしたら心がまあるくなる気がする。

「ねえ、これまっすぐに見える?曲がってない?」

子供の頃、几帳面を通り越して神経質だった私が
よく母に聞いていたフレーズ。
自分が置いたもの、自分が切ったもの、自分が折ったもの、自分が貼ったもの…
全部綺麗にまっすぐに出来ていないと嫌だった。

母ははじめの頃こそ「大丈夫だよ」「気にしすぎだよ」と言ってくれていた気がするけれど
いつしかこう答えるようになった。

「曲がって見えるのは、あなたがへそ曲がりだからかもね」

何度もその言葉を聞いて、その度に聞き流していた。
そんなわけあるかい、物理的に曲がってるか曲がってないかの2択だろ、と。

でも、大人になってみると
それは真理かもな、と思える自分がいる。

一本の直線だけを見つめてたって答えは出なくて、
引きで見ないといけない。
もしかしたら土台が曲がっているかもしれない。
もしかしたら自分の体が曲がっているかもしれない。

そして、もしかしたらなんにも曲がっていないかもしれない。
その場合は曲がっていると思い込んでいるから曲がって見えている。そして第三者の「大丈夫だよ」を素直に信じられない。へそ曲がりだ。

社会や人生に対する見方も、同じことが言える。気がする。
そのことに気づいてから、母の言葉を大事に抱えてきた。

--今、私はお好み焼きをまあるく焼くのに苦戦している。
どうしたって綺麗な丸にならない。
それはただただ私が不器用で下手くそなだけ、というのが事実なのだけれど、
母の理論でいくと丸くできない(丸く見えない)のは私の心が歪んでいることになる、のだろうか。丸くありたい。

夫に好きなだけ紅生姜入れていいよと言ったら、
大量に入れていた。

まあるくまあるく。一生懸命整える。
自分の心は歪んでいるのか。チクチクトゲトゲしている気がする。“許せないこと”が増えていってる気がする。
ぼーっと考えながら焼き上がるのを待つ。

結局、4枚焼いて全部歪んだ。
かろうじて最後の1枚だけ、ひっくり返す前までは比較的綺麗な丸になった。

その最後の1枚を「じゃーん!」と上機嫌にテーブルに置いたけれど、
夫が即座にソースとマヨネーズをぶっかけて食べようとしたので笑ってしまった。

マヨネーズの線が汚すぎる。
ねえ、もう少し綺麗にデコレートしたらどうなの。

しかし夫は「食べたら一緒でしょ?」と笑って思いっきり頬張っていた。
まあ、そりゃそうなのだけど。
直線やら丸やら、私が気にしすぎなのだけど。

夫を見ていると、私ってば的外れなことを考えていたかもな、と馬鹿馬鹿しくなってくる。
見栄えなんてどうでもいいことだとスルーできる雑さが心をまあるくするんだってこと。
つまり、もしかしたら歪んだお好み焼きでもオッケーにできる人の方が心はまあるいかもしれないってこと。

だんだん気づき始めてはいるけれど、
それでも私はまあるく焼きたくて、そうすれば心がまあるくなる気がして、願掛けのように丸にこだわってしまうのであった。

(久しぶりに食べたお好み焼き、おいしかった)

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