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現像

わたしは大学でなにを勉強しているのかと問われると、よくわからない、と答えてしまう。ちゃんと大学に行っているしわたしは私の学びたいことをめいっぱい吸収しようとしているけど、傍から見たら要るはずのない貴族の教養をかじっているようにしか見えないんじゃないか、とも思う

浪人した時に現実逃避のように三菱一号館美術館へ足を運んだ。あのとき、丸の内の高層ビルが立ち並ぶ中にたたずむ明治のレンガの色、忘れたくない。母に「美術館に行く」と言えば遊びに行くというより高尚に響く気がして、ちょっと東京駅みたいな恰好をして行った。本当は推しの声優がやっていた音声ガイドが目当てだった。

その展覧会で展示されていた絵よりも、音声ガイドだけに集中していた。歴史画なんて興味がなくて、ほわほわした風景画がかわいいなあ、色が と思うぐらいだった。そんなんだからすいすい見終わってしまうけれど、今思えば本当にもったいない話。

そろそろ終盤にさしかかるころ、モネの《Val Saint Nicolas》があった。そのときイヤホンから流れてきたのは推しの声じゃなくて、ドビュッシーの交響曲《海》だった。あの日、何を思ったか、わからないけど、私と絵が溶け合う感覚を共有できたら、どれだけ幸せなんだろうと、ずっとその日を夢見ている。

私が将来何になりたいか、と問われれば、まだまだ先のことだしと知らんぷりをするには成長しすぎた。とりあえず潰しが効くように手当たり次第に絵画を題材にした授業をとってはいるけれど、じゃあ実際に美術館に就職するのかと言われたら、それもいまだに未知数である。

学科のみんなは何でもできる、と言ったらあまりにも買いかぶりすぎだろうが、周りのみんなは演じるし、踊るし、撮る。それが専門の学科だから余計にスポットライトが当たって、自分には何もないんじゃないかとさえ思う、隣の芝生は本当に毒々しいほどに青い。

最初はやけくそな気持ちから、フィルムカメラを手に取った。母には「どうせすぐに飽きる」と言われて始まったが、これまた面倒で、出来上がりがどうなるのか、27枚撮り終わるまで分からないのにイライラする。でも1000円以上するものだし、そんなにカシャカシャ使いたくもない。だからゆっくり、ゆっくり、シャッターを切っていたけれど、3月から始めていたそれは気づけば6月まで、のこり2枚を残したまま、机の上に置いていた。だから昨日、バイトの行く道で若干曇った空と、近所の家の白いアジサイを収めて、現像に出した。

私に春がなかった、という感覚のほうが近い。お花見なんてもってのほか、遠くから桜を眺めるだけ、会いたい人にも会えず、デートもできなかった。いまだに父親は東京に帰ってこれない。おいしいものを食べに行くことも憚られ、春服は一回しか着れてない。でも27枚の中にはちゃんと春の風も、花びらも、西日も、季節外れの雪も、大好きな人の笑顔も、おいしそうなご飯も全部全部残っていて、たまらず嬉しくなった。大学で写真を撮るあの人たちは何を目的にしているのだろう、綺麗なものをより綺麗に収めるためなのか、ありのままを写すためなのか。レンズを通したその一枚は虚像に過ぎないのだけれど、偽でも、抱きしめたくなる気持ちを抑えられず、また新しい写ルンですを買う。

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