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仏像を拝めるようになる ルアンプー•プラモート師
もしも大菩提寺に行ったのならば
仏陀に思いをはせ
天界にいるような気持ちになるのです
私たちは死を待つ必要もないのです
よく見てみると
大菩提寺に来た人々は
心に喜悦(ピーティ)が生じ
幸せに包まれ
善心(クソン)により
心が天使(テーワダー)になるのです
五力がまだ弱い人は
物質に頼らなければなりません
光・音などを使い
私たちに信(サッダー)が生じるようにするのです
例えば
美しい仏像を見ると
私たちの心に幸せが生じるように
仏陀思い
ここにまだ仏教が息づいていると思いを馳せると
心に満足と微笑みが生じてくるのです
ルアンポーは大変疲れたとき
時々、お寺から抜け出します
なぜならば
お寺にいることは毎日忙しいのです
在家が何百人も毎日来るのです
ルアンポーがお寺から抜け出し
アユタヤのような遺跡に行き
歩いていくと
廃墟となった古代の遺跡に出会うことがあります
仏像も壊れ
かつて仏像の輪郭に彫られた
石だけになっていたりします
散らばっており
ただ積み上げられただけになってるものもあります
それらの石を見ると
ただの石ころであっても
ルアンポーは合掌します
合掌し
仏陀の遺徳を思い念じるのです
そして
自分自身を警告するのです
「仏陀と同じ道を歩むように」と
そして
「煩悩に負けませんように」と合掌するのです
バラバラになっている仏像の石辺を見て
手を合わせるだけで
私たちの心は満足で明るくなるのです
喜悦(ピーティ)が生じ幸せが生じるのです
頭部が取れてしまった仏像も
お寺に捨てる必要はありません
犬を捨てるのとは違います
ある人は
犬や猫をお寺に捨てていく人がいるのです
家の頭部が取れてしまった仏像は
くっつければよいのです
うまくくっつけば
同じ仏像なのです
智慧のある人と
智慧のない人は
同じものを見ても
感じ方や考えることは同じではありません
智慧のない人は
仏像を見ると
宝くじが当たりますようにと願うのです
これは欲深い人々のすることです
また別の智慧のない人々は
ただの石になぜ手をわせる必要があるのか?と考えるのです
この人々は我見の強い人々です
自我が強烈なのです
これももう一つの煩悩です
もう別の人々は
仏像を見ると
仏像が壊れてても壊れていなくとも
仏教が続き永らえ
ここまで続いていると
思いをはせ
ただそのように思うだけで
心が明るくなるのです
またある人は
仏像を見ると
仏陀に思いを馳せるのです
物質は仏陀を思い出せる装置です
なぜ私たちは物質に頼らなければならないのでしょうか
私たちの五力が弱いのであれば
視・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に頼らなければなりません
それはあたかも
信(サッダー)を呼び起こす刺激剤のようなものです
私たちは仏像に合掌している姿を目にして
無知な人々と思ってはいけません
彼らは
批評家たちよりもずっと賢いかもしれません
私たち568年10月12日