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何の為に修行するのか? ⑩ 【基本は"知る心”が自然に起ってくる様 訓練する】

(⑨続き)  智慧を何度も経験していると次にはこの様なことが観えてきます。「心は知る心になるか 浸り込む心になるかということ。そして、心に禁止させることは出来ないものであり、心に強制することも出来ないのである」と、これは無我(anattā)が観えているという事なのです。私達は心に注文することは出来ないのです。。心が浸り込むのは浸り込むことそれ自身の出来事なのです、私達ではないのです。貪欲が生じたならば、貪欲自身の出来事なのです。怒りが生じたならば、怒り自身の出来事なのです。心がどうであれ、それ自身がそのようになっているのです。知る心が立ち上がったならば自然に知るのです。わざと知ろうとする訳ではないのです。私たちは知る心が自然に立ち上がって来るまで訓練しなければならないのです。
 まず訓練では知ることが生じるところから始めます。私(ルアン・ポー)が以前話した事を覚えている人がいるかもしれません。それは、ルアンプー・ドゥン師が遷化される直前の最後に訪ねに行った時の事でした。師は「知る心に会うのは知る心を壊すためだ」と教えて下さいました。
 ルアンプー・ドゥン師の所を後にして今度は別の日にルアンポー・プット師を訪ねに行きました。師もルアンプー・ドゥン師を訪ねて来たと言い、ルアン・プードゥン師はルアンポー・プット師に同じ様にこのことを教えたというのでした。それは「修行をするのは何の難しいことがあるのか、"知る心"に出会うのは"知る心"を壊すためだろうに”」
 このように聞くと私達は知る心がまだ現れないにも関わらず”知る心”を壊そうとする方法を探してしまうのです。しかし私達にあるのは”浸っている心”ばかりです。サティは壊れてしまうでしょう。今はまだ知る心を壊してはいけません。知る心を破壊する時期ではないのです。それは不還果に入るまで取っておいてください。その後で、知る心を壊す話に進みましょう。
今のところ私達はまだ不還果になっていませんから”知る心”を壊すことはしないのです。まず”知る心”を持つ様にするです。観えますか? 知る心が生じる、そして心は考えに浸り込みます、それから知る心が生じます。今度は心に怒りが生じます、それから知る心が生じます。心に貪欲が生じます。こういう事なのです。
 少しずつ感覚を感じ続けていきます。ただただ感じていくのです。一瞬一瞬、パッパッと知っていくのです。このように何度も知っていくのです。生を間隔に切り分ける為に知る心があるのです。
 さっきは考えに浸り込んだ、今は知る心が生じている。さきほどは浸り込んだ、今はそれを知る心が生じている。このように観えますか? 長い間浸り込んで少しの知る心が生じる、それは自然なことなのです。

 "Paccupanna :現在"という言葉があります。知るという短い小さな活気が降りてくることは、現在に生きるということが出来るということなのです。目前だけの小さな一瞬なのです

 知ることが長く続くという事はありません。知ることが不変に続くことはありません。知る事が不変に続くというのは邪見なのです。本当は知る心は一瞬に生じて一瞬に滅するのです。(続く)

¶ 施本 ปฏิบัติภาวนาเพื่ออะไร バティバッ・ パーワナー・プア・アライ (何の為に修行するのか)より

ルアン・プードゥン師 หลวงปู่ดูลย์ (1887年~1983年) スリン県生 アチャン・マンからの教えも受けた。ルアンポー・プラモート師に最も影響を与えた、ルアンポー・プラモート師のいるワット・サンティタム寺院に入るとルアン・プードゥン師の像が一番初めに目に入る。ブラパラーム寺院(スリン)

ルアン・プードゥン師

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ルアン・ポープット師 หลวงพ่อพุธ (1921年~1999年)

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¶不還果 アナーガミー anāgāmi 4段階ある悟りの段階の3段階目。   1段階目 預流果(よるか) sotaapatti-phala 無常・無我・苦を経験し3つの煩悩(3結)が滅するa.有身見(うしんけん)sakkāyadiṭṭhi (私の心身が永遠不滅にあるという見解)
b.疑(ぎ) vicikicchā (真理がわからずグズグズしていること,盲信)
c.戒禁取(かいごんしゅ)sīlabbataparāmāsa(無意味なしきたりに拘る事)
2段階目 一来果(いちらいか) sakṛdāgāmin 貪瞋痴の煩悩がいずれも弱くなる。人間への転生が後1回で阿羅漢果に覚る
3段階目 不還果(ふげんか) anāgāmi  欲界への執着が完全に断ち切れる(五下分結)異常な欲(abhijjaā),異常な怒り(vyāpāda)が滅する。          4段階目 阿羅漢果(あらかんか) arahant 貪瞋痴の煩悩が完全に滅する(五上分結) 。色貪(ruuparaaga),無色貪(arūparāga),慢(maana),掉挙(uddhacca),無明(avijjā)  (悟りの4ステージ;預流果・一来果・不還果、阿羅漢果 藤本晃)
¶ Paccupanna  :present moment :現在 (Buddhadamma P.A.Payutto)タイ語では パチュパナーは ปัจจุบัน バチュバン=現在・今というパーリ語由来の一般用語になっているのが興味深い。ちなみに過去(Atīta(Pa)/アディーッอดีต(th))も未来(Anāgata(pa)/アナコッอนาคต (th))もパーリ語由来である。
¶ 邪見 Michchā-diṭṭhi :(wrong view) 間違った意見、すなわち善業道の原理に従う法の道から外れて間違った見解で苦の解脱に導かない見解。(P.A Payutto仏教辞典)

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