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「知る心」を使ってヴィパサナーする ルアンプー・プラモート師

「知るという心」を使ってヴィパッサナーをするにはどうすればよいでしょうか

それには

「対(ペア)になっており比較すること」が出来なければなりません

仏陀の教えを注意深く観察してください

仏陀は「対(ペア)になるもの」として教えました

身体であれば

「身体が息を吸う」

「身体が息を吐き」ます

この二つは対(ペア)になっています。

身体が「立つ・歩く・座る・寝る」

これらは身体の状態を比較することが出来ます

これらはペアになった関係性の事なのです

身体が「動く」

身体が「止まる」

わかりますか?

対(ペア)になっているのです

心が楽を感じる

心が苦を感じる

これは対になっています

身体が楽を感じる

身体が苦を感じる

これも対になっています

心が「楽」を感じる

「苦」を感じる

「不苦不楽」の状態である

このように比較できるのであれば一つのグループなのです

一色単に一つでは無いのです

心も同じなのです

仏陀は「知る心」を観るように言っていません

チッター・ヌパッサナー(心随観)でこのように言っているのです

それは

”比丘達よ 

心にラーカ(貪欲)が生じたならば

「ラーカ(貪欲)が生じた」と観よ

心にラーカ(貪欲)が無いのであれば

「心にラーカ(貪欲)が無い」と観よ”

わかりますか?

対(ペア)になっているのです

ラーカ(貪欲)がある

ラーカ(貪欲)が無い

ルアンプー・プラモート師

”比丘達よ 

心にドーサ(怒り)が生じたならば

「ドーサ(怒り)が生じた」と観よ

心にドーサ(怒り)が無いのであれば

「心にドーサ(怒り)が無い」と観よ”

わかりますか?対になっているのです

”比丘達よ 

心にモーハ(無知)が生じたならば

「モーハ(無知))が生じた」と観よ

心にモーハ(無知)が無いのであれば

「心にモーハ(無知)が無い」と観よ”

同じように対になっているのです

では

「知る心」とは何でしょうか?

それはモーハ(無知)の無い心です

ですから

カマターン(修習)を始める時は

「知る心」から始める必要はありません

始めは

「はまり込んだ心」から始まるのです

「はまり込んでいない心」の時は「知る心」のが生じているのです

そして「知る心」自体も滅するのです

そして再び

「はまり込む心」が生じるのです

しかしもしも

「知る心」に焦点を当てていくならば

知る心に焦点がぴったりとくっついていくならば

その時は

対象を一つ掴んでいる状態になり

対(ペア)にはなっておらず

ほとんどサマタの状態になるのです

仏歴2567年7月27日


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