何の為に修行するのか? ⑧【先に考えに浸る、そして浸り込んだと知る】
【先に考えに浸る、そして浸り込んだと知る】
(⑦続き) 少しずつ訓練していきましょう。心をを目覚めさせていくのです。禅定に入ることのできない人に最も易しい方法です。どうすれば心が目覚めるのでしょうか。「目覚めた心」とは「目覚めていない心」の反対の事を言います。目覚めていない心とは心が寝ている事を指します。心が寝てしまうと心は夢をみるのです。心が夢を見るとは考えていると言うことです。ですから夢を見ていると知った時が目覚める時なのです。ですから考えに流されている時、私達が“心が隠れて考え事をしている” と気づくならば、私達はその一瞬に目が覚めるのです。心が考え事をしていると知るのです。目覚めるとはそれを知った一瞬なのです。考えに浸っている時だけではありません。怒りが湧いてきます、”怒りが生じた”と知る瞬間、その一瞬も同じように目覚めた一瞬なのです。しかしこれを観るのは少し難しいのです。私たちの心は一日中考え事にハマっています。こちらの方が怒っている事を観るよりも易しいでしょうし、今日は誰にも怒っていませんが、どうやって修行したらいいでしょうか?という事もありません。
しかし一日の中で一時間の間でも全く考える事の無い日、こんな日はあるでしょうか?ありませんよね。心が考えているとは、心が彷徨っているという事です。心にモーハ(痴)があるという事です。ウッダッチャ(掉挙:じょうこ) と呼びます。これはモーハ(痴)の中の一つの種類なのです。心が彷徨っているというのは何べんも心が生じているという事です。ですから私達はそれを使って、何べんも生じるそれを業処(観察対象)として修行するのです。
何度も修行する事ができるのです。心は考えに流されて行きます。「おお、もうすでに考えに浸ってしまった」(もう既にという言葉がついていますね) 「もうすでに考えに浸ってしまった」どうして「もうすでに」という言葉が必要なのでしょうか。つまり「考えに浸ってしまう」という事は「考えに浸ってはいけない」ということではありませんよ。先に考えに浸る、それから考えに浸ったと知るのです。
沢山の人が間違った修習をしています。観る事を期待して待っているのです。いつ考えに浸り込むものかと、大きく期待しているのです。その待ち構えている瞬間ですよ、見事に考えに浸り込んでしまっているのです。
どの様に考えに浸り込んでしまったかを知る日はいつまでも来ないでしょう。なぜならばすっかり考えに浸り込んでしまうからなのです。ですから、先に浸り込むのです。先にぼーっと考えに浸り込むのです。その後に「ぼーっとした」と知るのです。「考えに浸り込んでしまった」と知るのです。先に怒りに浸り込んでしまうのです。先に貪欲に浸り込んでしまうのです。その後に「怒りが生じた」と知るのです。「貪欲が生じた」と知るのです。このように追いかけて知る訓練を何度も何度も続けるのです。(続く)
¶ 施本 ปฏิบัติภาวนาเพื่ออะไร バティバッ・ パーワナー・プア・アライ (何の為に修行するのか)
¶ モーハ;moha(痴) : 無知、愚かさ、ものごとの真の側面に気づくことができないこと(日本テーラワーダ協会)
¶ ウッダッチャ; uddhacca (掉挙:じょうこ) 落ち着きのない心
¶ローバ lobha(貪欲) : 六処(眼耳鼻舌身意)によって得られた情報を受け入れるはたらき 欲
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?