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何の為に修行するのか? ⑪【よく生じる観察対象を選び、何度も知る訓練をする】

(⑩続き)  訓練を続けていきましょう。感覚を感じる事ができるまでですよ。感覚を感じる為の方法は「考えに浸り込んだならばそれに知ることを間に合わせる」のです。この方法は簡単な課題といえます。なぜならば考えに浸り込んでいる心というのは最も頻繁に生じている心だからです。貪欲の心、怒りの心はそれに比べると頻度が少ないですね。考えに浸り込む心は一日中生じています。
 なぜならば貪欲の一瞬、怒りの一瞬というのは浸り込む心と一緒に組み立てられているのです。もしも浸り込まなければ貪欲は生じないのです。浸り込まなければ怒りも生じないものなのです。ですからこの浸り込みとは強烈な心なのです。しかし、心は浸り込むものだと学ぶことが出来るならば、私達は一日中修習することが出来るのです。

 修習を進めましょう。まず、よく生じる所縁(観察対象)を選びましょう。そうすると何度も知る訓練をすることができます。私達の心は一日中浸り込んでいるものなのです、私達はそれを知るのです。浸り込んだならばそれを知る。浸り込んではそれを知るのです。素早くそれらが入れ替わっていると観えてくるのです。
 以前にカンチャナブリ県にいた時の出来事です。ある若者の男性が訪ねて来、このように聞きました。「私は四念処に無い所縁(観察対象)の修習をしていますが、良いでしょうか?」どんな修習方法なのかと尋ねたならば、彼はこのように言いました、「もし雷が鳴ったのならば私は身体を感じています」と。そこで私はこう言いました「一年に何回雷が鳴るのかい?ものすごい長い時間が掛かるでしょう。ある時は雷は何ヶ月も鳴らないでしょうに。つまりは今まで過ぎてきた長い時間、君には気づきが全然無かったということですよ、そうでしょう? 君に気づきがあるのは雨が降りそうな時だけなのですか?」と。ですから、このようなやり方は使う事が出来ません。
 自分の事を思い返してみて下さい。ブッダは四念処の中で所縁(観察対象)の修習方法を残して下さいました。それはずっと生じている所縁なのです。息が出る、息が入る、私達は一日中呼吸が生じていますね。もしも息を吐いて身体を感じる 息を吸って身体を感じるならば一日中身体を感じることができますね。 立つ・歩く・座る・横になることは一日中ありますか? そうですよね、一日中ある動作ですね。立ち上がらなければ歩きます。歩かなければ座ります。座っていなければ横になります。このように覚えておくのです。
 もしも歩く・立つ・座る・寝る・その都度感覚を感じるのであれば、ほぼ一日中身体の感覚を感じる事が出来るということです。しかし自然でない動作はこれに含みません。例えば飛び跳ねる事や泳ぐなどのは動作は自然ではない動作です。
 ブッダはをサンパジャーナ(正知) を動きの中のカギになる事として教えて下さいました。動いている、それを感じ取る。動いている それから止まってじっとしている、止まったならば、また動き始める。もしも、止まってじっとしてることを感じ取る、動いていることを感じ取るならば、一日中感覚を感じることが出来ます。
 ブッダが示して下さった所縁は一日中生じているのです。ヴェーダナ(受)の所縁は一日中ありますか? 楽・苦・不苦不楽、一日中ぐるぐると回っている、そうでしょう。もし楽が生じたならばそれを知る、もし苦が生じたならばそれを知る。不苦不楽の状態ならばそれを知る。一日中感覚を感じ取ることが出来ます。
 心を観ます。心が浸り込んだらそれを知る、ただただ知っていくのです。一日中生じていますね。一日中考えに浸り込んでますね。中には貪欲が癖になっている人がいますがその人は別です。何に出会ってもいつでも欲しいと思ってしまうのです。欲しい気持ちが物凄い頻度で一日中生じているのです。この場合はこの欲しいという気持ちをウィハラターム(心の居場所)にして観察します。この欲しいという気持ちはずっと動き続けていますから「見たい」が生じたならば知る事を間に合わせる。「聞きたい」が生じたならば知る事を間に合わせる。「考えたい」が生じたならば知る事を間に合わせるのです。これらの貪欲とても強いですね。「欲しい」をウィハラターム(心の居場所)として観察するのです。欲しいという心と欲しくないという心を観るのです。観たならばそれで十分になのです。
 怒りっぽい人はどんな小さなことでも怒ります。どんな小さなことでも不満足で怒るのです。怒っているその心ですよ。それを持って来てウィハラタームにして観察するのです。心に怒りが生じたならばそれを知る。怒りが生じたと知った瞬間が知る心なのです。怒りが生じていないという瞬間の心があり、また怒りが生じるのです、それから知るのです。これらは一日中生じているのが観えますか。
 私達が使う業処は、一日中生じている所縁(観察対象)でなければなりません。そうすることで私達は一日中サティを持つことが出来ます。息を吐く そして 身体を感じる。息を吸う そして 身体を感じる。ぼーっとする そして 身体を感じる。ぼーっとすることに知る事を間に合わせる。そうすると知る心が立ち上がるのです。すべての事は生じて滅し、止まる事なく 回転し続けて変わっているのです。(続く)

¶ 施本 ปฏิบัติภาวนาเพื่ออะไร バティバッ・ パーワナー・プア・アライ (何の為に修行するのか)より

四念処(しねんじょ:Satipaṭṭhāna4,สติปัฏฐาน 4) 
1.身念処(Kāyānupassanā-satipaṭṭhāna :contemplation of body;mindfulness as regards the body) 念を凝らして身を如実に考察して、単なる身であり、人・衆生・自我・われ・彼ではないと見る。
2.受念処(Vedanānupassanā-satipaṭṭhāna :contemplation of feelings:mindfulness as regards feeling) 念を凝らして受を如実に考察して、単なる受であり、人・衆生・自我・われ・彼ではないと見る。すなわち念をもって、そのときのあるがままの状態に、肉体的なもの、精神的なものにかかわらず、楽、苦、不苦不楽の受をはっきりと知る。
3.心念処(Cittānupassanā-satipaṭṭhāna :contemplation of feelings;mindfulness as regars feeling)念を凝らして心をを如実に考察して、単なる受であり、人・衆生・自我・われ・彼ではないと見る。すなわち念をもって、そのときのあるがままの状態に、貪がある、貪が無ない、瞋がある、瞋がない、痴がある、痴がない、憂がある、清らかなどの自分の心をはっきりと知る。
4.法念処(Dhammā-satipaṭṭhāna :contemplation of mind-objects:mindfulness as regards ideas)念を凝らして心をを如実に考察して、単なる法であり、人・衆生・自我・われ・彼ではないと見る。すなわち念をもって、そのときのあるがままの状態に、五蓋、五蘊、十二処、七隠支、四聖諦とはいかなるものか、いかにあるか、我があるか、いかに生じ、繁栄し、滅するかなど一切の法をはっきりと知る。(P.A Payutto仏教辞典 182)
¶正知 (Sampajañña: สัมปชัญญะ) clear comprehension  はっきりと知る、思うことをはっきりと知る如実にはっきりと知ること。(P.A Payutto仏教辞典 25)
 ヴィハーラ・ダンマ(vihāra-dhamma:วิหรธรรม) mental abiding : vihāra 住、住処 +dhamma   法の住処
¶ 受:ヴェーダナー (Vedanā เวทนา)feeling sensation 所縁を受用すること、所縁の味を感じる事。
 1.楽受(Sukha-Vedanā:Pleasant feeling :pleasure) :身を通じても、心を通じても、安楽、快適さを感じる事。
 2.苦受(Dukkha-Vedanā:painful feeling,pain):身を通じても、心を通じても、苦、不快を感じる事。
 3.不苦不楽受(Adukkhamasukha-vedanā,Upekkhaa-vedanā:neither-pleasant nor painful feeing :indifferent feeling)楽でもない、苦でもない、捨受(Upekkhaa-vedanā)と呼ばれる平静な感覚  (P.A Payutto 仏教辞典)


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