祈りが持つ力 #15
ひとはなぜ祈るのか
生きていれば、理不尽なことはたくさんある。
世界では戦火が消えることはなく、この国でも貧困や差別や暴力が止まったことはない。
思い通りにいくことのほうが少ないし、意地悪なひとや運命に抗うのは難しい。
そんなときに、ひとは祈る。
なにかを得ようと思って祈るのではない。
あれがほしい、これがほしいということを祈るのではない。
既に持っているものをよりよく活かせるように、恐れや不安のない心で最良の決断ができるようにと祈る。
私達は神様から愛されていて、それに気づいて、それに感謝するようにと祈る。
アカデミアと祈り
キリスト教系の大学では、教員がクリスチャンである必要があるというところもあるようだ。
アカデミアとは、ほかの業界と同じように、理不尽なことが多い場所で、実力主義が身についているわけでもない。
努力だけではどうにもならないことが、社会にはたくさんある。
任期付職員として長い間生きていくとか、ポストがあかないとか、長時間労働でやりたいこともできないとか、深夜も早朝も働くためワークライフバランスがちっとも保たれていないとか、そういった理不尽なことはたくさんある。
その現実を変えることはできなくても、その現実にどんなこころで立ち向かうかは、すこしくらいなら変えられるかもしれない。
その一助となるのが、祈りだと感じている。
キリスト教文化圏で共有されてきた祈り
私はキリスト教以外の宗教を知らないし、キリスト教のこともよくわかっているわけではないのだが、祈りというのは世界中で常にされていることだと感じる。
それが祈りであると認識されているかいないかにかかわらず、ひとは常に祈っている。
ウクライナで戦火から逃げたひとたちが、壁に「主の祈り」を書いたという話がある。
主の祈りとは、イエス・キリスト自身が「こう祈ったらいい」というのを教えたもので、キリスト教社会でよく使われている。
ウクライナではウクライナ正教会という団体が主に活動し、正教徒と呼ばれるキリスト教のひとつの宗派を信じる方が多い。
日本にも、東京と大阪にウクライナ正教会の聖堂がある。
キリスト教の主な下位分類として、カトリック、プロテスタント、正教会があるが、その垣根を超えて共有されてきた祈りを、以下に載せる。
ニーバーの祈り
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。
アーメン
ニーバーの祈り (Serenity Prayer) 英語版
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
Living one day at a time,
Enjoying one moment at a time,
Accepting hardship as a pathway to peace,
Taking, as Jesus did,
This sinful world as it is,
Not as I would have it,
Trusting that You will make all things right,
If I surrender to Your will,
So that I may be reasonably happy in this life,
And supremely happy with You forever in the next.
Amen.
ある無名兵士の祈り
大きなことを成し遂げるため、力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった。
偉大なことをするため、健康を求めたのに、
より良きことをするようにと、病気を授かった。
幸せになろうと、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得るため、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。
人生を楽しもうとして、あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。
求められたものは、ひとつとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福された。
ある無名兵士の祈り (Confederate Soldier's Prayer) 英語版
I asked for strength that I might achieve;
I was made weak that I might learn humbly to obey.
I asked for health that I might do greater things;
I was given infirmity that I might do better things.
I asked for riches that I might be happy;
I was given poverty that I might be wise.
I asked for power that I might have the praise of men [people].
I was given weakness that I might feel the need of God.
I asked for all things that I might enjoy life;
I was given life that I might enjoy all things.
I got nothing that I had asked for,
but everything that I had hoped for.
Almost despite myself my unspoken prayers were answered,
I am, among all men, most richly blessed.
現実を変えることは難しくても、それをどんなこころで受け止めるかは変えられる
過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられるという言葉がある。
実際に、私達人間には超能力はないから、亡くなったひとを生き返らせることも、理不尽な現実を変えることも、未来への不安を消すこともできない。
それでも、祈ることで、なんだか力が出てくることがある。
現実はほとんどなにも変わっていないのだが、その現実に立ち向かうだけの勇気を、祈りは与えてくれる。
そうすると、現実は変わらなくても、現実に立ち向かうときに、こころにすこしだけ明るい光がともされるような気がしてくる。
現実がもたらす苦痛を反芻しながら生きる
私は器用な人間ではないので、「考えないようにしよう」と、こころに蓋をすることはできない。
そんな自己欺瞞は私には通用しない。
嫌なことがあったら、私はそれをいつまででも考える。
断ち切ることはできない。
私はいつしか、それを反芻する生き方を身に着けてきた。
嫌なことを無理して消化しようとせず、ゆっくり、何度も、反芻していく。
その過程は決して綺麗なものではないし、楽なものでもない。
ただ、それでも、すこしずつ、その悲しみが血や肉に変わっていく。
その苦しみをすこしだけ楽にするような、消化を助け胃を守る胃薬みたいな役割を持つもの、それが祈りだ。