雪と氷に覆われた世界で
『お題をもらって書く』より、「たったひとりのおんなのこ」で
暗闇を少女は慣れた足取りで歩く。全ての窓が雪と氷に覆われ、建物の中には一切の光が入らない。少女が手に持ったランタンだけが、ぼんやりとした光を放っていた。
照らし出される壁面は書架だ。ここはかつての図書館であり、研究施設であり、地上が凍り付いてからはシェルターとしての役割も担っていた。だが、かつてここに逃げ込んだ人々、そしてここで研究をしていた学者たちはもういない。ここにいるのは少女だけだ。
発電設備が故障したため、空調、照明、電力を必要とする全てを使用出来ない。今や暗い縦穴となりはてたこの塔は、いくつもの建物からなる大きな図書館の中心に位置し、床から天井までは三十メートル超の高さがある。壁面のほとんどが書架で埋め尽くされ、その隙間を樹形のように細かく梯子と通路が渡されている。ランタン一つではせいぜい自分の立っている通路と書架の一部しか照らし出すことは出来ず、通路の柵を隔てた塔の中心部には上にも下にも深い闇が広がっていた。
この塔だけでも文献の数は膨大だったが、少女の頭の中には、何処にどの本があるのか、そして、この梯子と通路のどれを使えば何処へ行けるのか、それらが全て記憶されている。少女にとって塔の本は、広大な図書館の中から見つけてきた特に気に入った本たちだ。少女は一日のほとんどを此処で過ごした。退屈な時間を、此処にある数多の物語が慰めてくれた。この図書館は、少女にとっての宝物庫なのだ。
少女は梯子を登り、通路を行き、また梯子を登って……、最上部の通路に辿り着くと、書架に向けてランタンを掲げた。題の擦れた一際傷んだ本を選び書架から抜き取ると、少女はその場に座り、ランタンを置いて本を開く。
それは、かつて地上から失われた、季節を書いた本だ。広大な大地、緑の草原、色鮮やかに咲く花や、温暖な気候に生きた生き物たち。夏の記述、秋の記述、冬の記述、そして、冬の。
昔、冬が終われば春が来た。今の人類は、それを知らない。地上の全てが凍てついたのは、二百年と少し前のことだ。それから世代を経て、春は言い伝えや本の中に残るばかりとなった。
少女にとってもそれは同様だ。生まれてからずっと雪原に暮らしていた少女には、春も夏も秋も、幻想でしかない。飽きるほど読んだ記述だが、何度でも胸を焦がした。
本を開いてしばらく経った頃、少女は天井の軋む音を聞いた。
シェルターとして使用される時に耐雪補強がなされたものの、何分古い。かつてはこの塔の床より少し低い位置に大地があった。けれど、雪と氷が世界を覆い、長い年月を掛けて今や地上と呼ぶべき雪原は塔の屋根より高い場所にある。いずれ、天井が抜けて落ちるだろう。
そう思った矢先、轟音を立てて屋根が割れた。屋根に乗っていた雪が、塊になって塔の中央に雪崩れ込んだ。割れた天井から白い光が注ぐ。
轟音の中に、聞き慣れないエンジン音が聞こえた。雪上バイクが塊に混じって降ってくる。通路の柵にぶつかり、跳ねるように塔の中を落ちていった。僅かに遅れて、力なく宙に四肢を投げ出した耐寒性のウェアを着た人間が落ちるのを見た。
* *
床が雪に埋まった塔からエントランスへ移って、瓦礫を用いて火床をつくり、そこで火を焚いた。薪はないので燃料としては本を使った。幸い、どこの棟に移っても本は山のようにある。ページ数の多い辞典を何冊か纏めて火の傍に積み、少女は本を開いて火に入れた。火が移ると、まるで溶けるようにあっけなく嵩を減らしていく。
火の向かいには、天井から落ちてきた人間が転がっている。外傷はないようだから、すぐに目を覚ますだろう。
元から空調設備が機能していなかったが、塔の天井が落ちたことによって今までにも増して館内の室温がぐっと下がった。このまま此処に寝かせておくと、いくら耐寒装備とはいえ命に関わるだろう。
火を絶やさぬように、もう一冊本を投げ入れる。どれも一度は読んだ本ではあるが、燃やすのは惜しい。しかし、他に燃えそうなものはなかった。
火の向こうから、うめき声がした。
「……きみが助けてくれたのか」
人間は身体を起こしてそう言った。口元を覆ったフェイスカバーを下げる。女だ。彼女は身震いして、火の傍に体を寄せる。それから、周囲をぐるりと見回した。
「ここは?」
「古い図書館よ」
女は怪訝そうな顔つきで、少女の姿をまじまじと眺めた。
「きみは此処に暮らしているのか?」
「そうよ」
女の視線は尤もだ。声にも戸惑いが滲み出ている。
少女の服装は、空調が機能しているシェルターで着られているものだ。空調機能のない場所で着る服装ではない。シェルター外を行き来する人間は、女が着ているように耐寒性のウェアを着る。これは外へ出るにあたって必須の装備だ。これがなければ、生命の維持すらままならない。少女の服など、裸でいるも同然だ。
女は少し考える風な様子を見せたが、それ以上を少女に問い糾すようなことはしなかった。落ち着いた様子で、何かを探すように視線を動かしながら、「わたしのバイクは?」と女は言った。
少女は視線を部屋の入り口に投げた。
雪上バイクは、落下の衝撃で損壊がひどい。天井の瓦礫と落ちてきた雪の山から引きずり出しておいたが、動かすのは無理だろう。落下時に床に衝突した車体の右半分は、甚だしく潰れていた。
女はバイクへ駆け寄ってエンジンを掛けようと試みたが、うんともすんともいわない。しばらく損壊の程度を確認していたようだったが、やがて「動きそうにない」と困ったように笑いながら火の傍に戻ってきた。
「どうして外にいたの?」
「旅をしていたんだ。もうかれこれ十年、特に住処を定めないで走り回ってる」
「ひとりで?」
ああ、と女は頷いた。
「すまないが連絡設備はあるかな」
「そんなものないわ。電気系統は全て使えないの」
「定期便は? 車両は?」
少女は首を横に振る。
「ここは廃棄されたシェルターなの。ここはもう地図には載っていないし、他からの干渉はない。車両も置いてない」
「……隣のシェルターへはどのくらいかかる?」
此処を挟むようにしてある両隣のシェルターへは、車両を用いて半日かかる距離だ。双方向共に、中間に宿泊出来る場所はない。
「歩いて行くのは無理だと思う」
シェルターは旧時代の都市の場所に築かれている。この図書館の周囲には小規模な学術都市が形成されていたというが、付近はそもそも往来の乏しい山岳地で、シェルターを築くほどのコミュニティが近くになかった。このシェルターが廃棄されて以降、旅人もほとんど近くを通らない。
困ったな、と、諦観の滲む呟きが聞こえた。彼女は頭を抱えてしばらく火を見つめていた。火の中であっけなく燃えていく本を。
「今までもこうやって本を燃やしていたのか?」
「ううん。本を燃やしたのは初めて」
もし、少女が暖をとるのにこれまでずっと本を燃やしてきたのなら、今頃館内の本は尽きているだろう。少女には暖をとる必要がないのだ。生まれた時から、この環境に適応していた。
「わたしが此処に流れ着いた時、まだ此処には人がいたの。此処で研究をしていた学者たち。彼らは空調が壊れた時に本を燃やすことを躊躇った。そして、一人ずつ凍えて死んでいったの」
「それはいつのこと?」
「二百年も前よ」
女は驚いたように、しかし、やっと腑に落ちたという顔をした。笑ったようにも見えた。
人でないものが眼前にいて、女は身じろぎ一つしないでいる。
「本を燃やす必要はない」
穏やかな声で女は言った。
「どうして?」
「此処の本は、きみのためにとっておいたらいい。あるいは、誰か、この先に訪れる誰かのために。わたしはきっと、この本が燃え尽きるのを待つまでもない」
女には、もう出来ることがない。
此処にはしばらくの火種と、少女が蓄えている食料がある。だが、他のシェルターへ行く手段がない、助けを呼ぶことも出来ない。冷気は体に凍みるだろう。この環境は女の体力を徐々に削っていく。女が悟っているように、おそらくこのままでは、本が燃え尽きるのを待つまでもなく女の命は潰えるだけだ。
女の表情は死を目前に絶望しているとは思えないような、どこか清々しい印象さえ受けた。どんな些細なトラブルさえ、死を招く極寒の地上。女はきっと常にこうしたリスクと隣り合わせだったことだろう。今更みっともなく泣き叫ぶくらいなら、きっとはじめから、旅などしていない。
「……旅は、楽しかった?」
「ああ、とても」
死にそうになっているのはその旅のせいだというのに、女はそれを悔いる様子はない。まるで、平穏無事に旅を終えた日にその思い出を振り返るような、穏やかな笑みを浮かべてている。
女が「きみは?」と此方に問いかけた時、少女はその意図を諮りかねて黙った。
「きみは、旅をしたことは?」
「此処へ来たことを旅というのなら……」
「此処へは、どうして?」
その時のことはあまり覚えていない。がむしゃらに、果てを目指していたのだろうと思う。流氷の海原を越えて、その果てへ。しかし、待っていたのは、どこまでも景色の変わらない雪原だけだった。
「雪原の外を目指していたの。でも、どこまで行っても結局果てはなくて、わたしはここで学者たちに出会った。彼らから春を教わったの」
少女の故郷には長い冬と、短い夏があった。そこでいう夏というのは、吹雪のマシな時期のことだ。雪がなくなることはない。今の地上と大差なかった。
学者の語る春は、少女の知らない世界だった。雪が融けて大地が露わになり、そこを少しずつ背を伸ばした草が覆う。木にも新芽が現れ、花を咲かしたのだと。少女がここにやって来たその十年前まで、この土地には春があったという。
けれど――。
「学者たちは、もうこの地上の何処にも春はないと言った。だからわたしは、ここから先へ進むのをやめたの」
そして、二百年、ここで物語を読んで過ごした。
「目指す果てがないのだとしても、ここには、春という知識が残っている。わたしも、あなたたちも知らないだろう、ふるい知識が此処にはたくさんある」
「果ての果てまで見ていないのなら、まだどこかに春が残っているのかもしれないじゃないか」
「学者は言った。ネットワークで繋がった全ての都市が凍り付いたって」
「二百年も前のことだよ。今は分からない」
「あなたなら、それでも果てを目指す?」
「目指す手立てがあるのなら」
女は、寂しげに笑う。
火の中の本は、表紙だけがうまく燃えずに残っている。間のページはほとんど形がなくなっていて、灰になって崩れた。燃えやすい部分がなくなると、だんだんと火が小さくなってきた。
少女は火を見ながら思案していたが、いよいよ火が消えそうになって、ようやく心を決めた。
「手立てをあげる」
「え?」
「わたしがあなたを生かしてあげる。だから、わたしを果てに連れて行って」
女は、驚いて目を丸くした。やがてその目を輝かせて、声を上げて笑った。
真面目な提案だったのに笑われたのが気恥ずかしくて、少女は口を尖らせて言う。
「行くの? 行かないの? 行くのなら支度をして。火が消えるわ。もう本は燃やさない。行かないのなら、凍えてしまえばいいのだわ」
「ああ、行く。行くよ」
女は立って、ひしゃげた雪上バイクに固定していた荷物を解く。荷物もやはり落下の衝撃で変形していた。床に広げた荷物の中からいくつかを拾い上げてウェアのポケットにねじ込むと、それで支度は済んだらしい。
「それで、どうやって?」
「こっち」
少女は女を誘って、エントランスから塔へ繋がる通路へ出た。天井から降ってきた雪は通路へも雪崩れ込んでいる。一度はすっかり塞がってしまっていたのを、少女が掘って通れるようにしたのだ。雪と瓦礫の山を登って、天井がなくなった塔の真ん中へ出た。
見上げた空は、青かった。お気に入りの蔵書たちが、今までに見たことがないほど鮮やかに壁を彩っている。最上層の通路には、ランタンと本が瓦礫に押しつぶされていた。
「しっかり掴まっていて」
少女は女の身体を軽々と担ぎ上げて跳躍した。一気に、天井すら飛び越える。地上へ出た瞬間、風圧で粉雪が舞い上がった。
落下が始まる瞬間、少女はかたちを変える。鱗のある白いからだに白い翼。雪原に溶け込む白銀の竜が、少女の本性だ。宙で身体をくねらせて、羽ばたく。背からフェイスマスク越しのくぐもった叫びが聞こえた。振り落とされまいと、背に回された手に力がこもる。
雪原を掠めて、低く飛翔する。風を切り、雪を割る。
かつて人間が地上に台頭し、竜は地上から姿を消した。種は散り散りになり、今はどれだけの数が息を潜めているのか分からない。
少女は雪原に隠れた竜の末だった。舞い上がる雪の中に姿を隠すのは、かつて地上の覇権を握った生物、人間の目を逃れるため。今の地上ではほとんど意味がなくなったけれど、この習性は身体に染みついている。
少女だった竜は咆哮を上げる。
背にしがみついた女が楽しそうに歓声を上げた。
お題を貰って短い話を書いています。
この話はお題「たったひとりのおんなのこ」で書いたものです。気になった方は是非お題を下さいませ。
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