無理せんでええんちゃう?
あることについて、どうしようかなと考えていた。
いつもと同じじゃつまらないから、ちょっと変わったことしたい。
それならいつものAパターンじゃなくBパターンにしようか?
もしBにするとしたら、その中でどうしようか?
ぐるぐる色々考えて、
自分はどうしたいかを考えて、
どうしたら効率いいかなとか無駄がないかなとか考えて、
そしたら、ふっと、浮かんだ
「無理せんでええんちゃう?」
という言葉。
無理?
私、無理、してる?
無理するも何も、逆に「自分は何もしていない」という思いが、強かった。
就職してる訳でもない。
子育ても介護もしていない。
フリーと言っても実質無職のような。
専業主婦のような。
誰にも急かされない。
誰にも責められない。
誰に迷惑かけるでない。
でもどこか、そんな自分を、正当化するために、誰からも文句言われないように。
先回って、
何かやってる感だして、
役に立ってると思われたいような、
自分の存在が無駄じゃないって言いたいような、
何かしらの評価、それを無意識に求めていた。
そのためにどこか、無理をしていた。
深い深い、心の奥底で。
どうしても人と比べちゃうんだよ。
日々忙しく働いている人。
時間をめいいっぱい使って動いてる人。
自分のアートを表現している人。
楽しそうな人。
輝いて見える人。
比べる意味はないって頭で解っていても。
「ちゃんとしなきゃ」
自分が自分を叱咤する。
そして「ちゃんとしなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」と思えば思うほど
何もしたくなくなる。
気力が湧かない。
考えたくない。
何もしたくない。
そして、そんな自分を自分が責める。叱咤する。
さらにもっと気力がなくなる。
悪循環。
「無理せんでええんちゃう?」
何で関西弁なのか知らないけど、時々私の心にツッコミが入る。
誰かと比べたら、自分なんて、とつい思ってしまうかもしれないけど
自分の心のことは、自分にしか解らない。
タイミングもやり方も表現も、人の数だけある。
今動けないならきっと、今は動かない時。
時がくれば自ずと、動くことになる。
そして本当は自分もそれを、深い部分では知っているはずなのに。
そんな自分を責める行為は、ある意味「プレイ」でもある。
「ちゃんとしなきゃプレイ」。
自分を責めることで、誰かに、何かアピールしている
「私ちゃんとしてるでしょ」って。
そういうの、もう、いいのかな。
いいのかもしれないな。
「無理せんでええんちゃう?」
その言葉が響くならば、確かに私は疲れている。
ちょっと落ち着こう。
効率良くとか役に立とうとか、そこから離れよう。
手抜きも良しとしよう。
変わらないままでいることも受け入れよう。
そう、動く時には、考える間もなく、動きが起こるものだから。
今はちょっと、ゆっくりしよう。
何もしないを、許そう。
ゆっくりしよう。
ゆっくりしていいよ。