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ぜんぶうけとめる

例年より暖かいとはいえ、今年の冬は冬なりにさむくなった。朝、着替えるのがつらい。ヒーターにかじりついているわたしを見て夫は笑う。実家にいる時は、父に笑われていた。なにも変わっていないな、とおもう。

秋ごろは、なんとなく調子が良くて、書くことにおいても、それ以外でも。飛ばし過ぎたからなのか、いま、一気に墜落して、地面にへばりついているところだ。

ペース配分がへたくそすぎる。それ以前に、自分のキャパがちっさすぎて、想像の何倍も大したことなさ過ぎて、落ち込んでしまうよね。一年前と比べてストレスは減っているはずなのに、体の色々なところがいつも調子悪くて気持ちが滅入ってしまう。あ、逆か?気持ちのせいで、体に影響をきたしているのだろうか。心と体は繋がっているっていうし。ぐるぐる。

5年後も、10年後も、ちゃんと健やかに生きていられているだろうか、なんて考えてしまう。本当はわかっている。幸せなのだ、私は。幸せじゃなければ怖いものなんて一つもないはずだから。

いつまでもうまくいくはずがないならば、せめて今この瞬間の幸せを(あるいは不幸せを)からだ全部で味わったらいい。わかっているけど、できないんだよなあ。わがままで貪欲だよなあ、人間は。私は。

✳︎

遅ればせながら、チェーホフの戯曲をふたつ読んだ。なんか、すごかった。語彙力無さすぎる感想だが、あれこれうまいことばをつかってまとめたところで、このような傑作の前ではじぶんという人間の陳腐さが際立つだけだと思ったので。誰が読んでも傑作なのだから、すごかった、くらいがちょうどいい。

「ワー二ャ伯父さん」を読み終わったところで、この舞台を軸に描かれた映画「ドライブ・マイ・カー」をもう一度見た。カセットテープに吹き込まれた、主人公の亡くなった妻の声で再生される台詞のひとつひとつが、重さと意味を増して聞こえた。物語の輪郭をゆるやかになぞるその台詞は、ぜんぶで9人からなる登場人物によるもののはずなのだけれど、不思議と全て同じ人のことばのように感じられた。それが、普遍、ということなのではないかと思った。

イ・ユナ演じるパク・ユリムのソーニャが本当に本当に、良かった。彼女の透けるような瞳の奥にある強い光、手で紡ぎ出すことば、儚くも凛としたたたずまい。この映画の山場で私は泣かなかったが、ソーニャの手話による台詞を見ている時だけはぽろぽろ涙が出た。それは体内が浄化されるような、心地よい涙だった。音は聞こえないが、体がしぜんと呼応しているのがわかった。言葉は意味を伝える手段の一つにすぎないと、こういうときに思う。

「生きてゆきましょう」、ソーニャは言った。どんなに辛いことがあっても、理不尽でも、誰もわかってくれなくても、報われなくても、もしかしたらしぬまで、報われなくても。甘んじて受け入れなければいけないのかもしれない。この世界で生きる限り、みんな、ずっと辛い。

それでも寄りかかりあって生を続けることを、最後まで全うすることを、希望と感じることができたなら、それこそが強さであり美しさといえるのだろう。ソーニャのような。ワタリミサキのような。

生きてゆきましょう。そうだね、私たち、ほっと息がつける時まで。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。