お金は捨てるモノだ:Anizine
「自己肯定感」なんていう言葉が流行っているようだけど、自分を肯定しすぎても否定しすぎてもダサいから、いいカンジにしとけ、で終わり。
「いや、もっとその人の気持ちになって、優しくしてくださいよ」という言い分もわかるけど、その慰めって関係ない他人から言われても何の効果もない。むしろ、「あなたは頑張ってる。きっと誰かが見てくれているよ」なんていう善意の言葉の方が、よっぽど冷酷だ。誰かって誰だよ。お前はどこで見ている。
自己肯定感とは違うけど、たとえば、「生活が苦しいんです」とリアルなことを言われたら、経済的な援助以外は必要としていないことがわかるだろう。「頑張ってるね、偉い」なんていうテキストデータを親指だけで飛ばして、「私は優しいことを言ってあげた」なんて満足するのは大きな勘違いだ。
振り込め。実弾を。
お小遣いの中から自分が使えるはずの数千円を見ず知らずの他人に譲るというのはどういうことか。それは『ロバート・ツルッパゲとの対話』の中にも書いたけど、自分と他人の境界線をどこに引いているかのスタンスが試されている。ソマリアで何があろうと、香港で学生が暴力を振るわれていようと何も思わない人は、マンションの隣の部屋の人が困っていても何も感じないだろう。
自分、家族、友だち、知り合い、と距離が離れるにつれて当然のように共感は薄れていくものだけど、そこに幾ばくかの疑問は持った方がいいと思ってるよ。
俺は自己肯定感がマイナス6000ポイントくらいだから、「自分がしていることの全部が、ズバリ大したことない」という固形物のような手応えを持っている。そのマイナスを緩和するにはリハビリをするしかない。
noteでも、経済的にちょっと困っているという何人かの投稿を読んだことがある。そこにサポートボタンがある限り、押すよ。もし自分が同じ状況にいたら助けて欲しいと思うだろうから。
「日本の経済状況はインバウンド景気が後退した後、規模の小さい小売業は苦境に追い込まれるだろう」なんて、素人の安っぽい経済展望なんかいらない。
苦境だと思ったら、サポートボタンを押すんだよ。
俺のサポートボタンには偉そうなことが書いてあるから読んで欲しいんだけど、時々100円から数千円のサポートをいただくことがある。これは俺が経済的に困ってるだろうと思われているんじゃなく、投稿に共感してくれた気持ちの表れだと思うからありがたく受け取っている。
そういう無関係の他人との間にも「こころの交流がある」ということがわからない人の言葉は、あらゆる意味で価値がないから聞く気がしない。
アジアでもヨーロッパでもそうだけど、道に座っているホームレスにお金を渡している光景をよく見る。貧乏大学生っぽい人や、それほど裕福そうには見えない人も。それを、仏教的・キリスト教的なバックグラウンドが、なんて分析はしなくていいよ。日常でもサポートボタンを押す気がない人ほどそういう屁理屈を言う。それは自分がやらないことへのエクスキューズから生まれているのはわかりきっているから。
「喜捨」というのは喜んで捨てることだし、It's my pleasure.というのは、「そうすることはあなたへの親切ではなく、私がしたいから(気にすんな)」という意味だ。
反対に、ある芸能人が葬式で配ったモノが、メルカリで売られているという話も聞いた。どれだけ下品なんだろう。お金って、チケットみたいに、それがあればやりたいことができたり、行きたい場所に行けるってだけのモノだ。いくら集めようともあの紙にはまったく価値がない。だから「使い方」にセンスが出る。俺は自分が食べたいモノを食べ、どこかに行きたい時は自由に行けるだけのお金さえあれば、それ以上はいらない。
これは献血にも似ているね。それがなければ死んでしまう人がいるかもしれないのに、十分余っている健康な人が差し出すのを拒むような。血もお金も余っていれば残しておいても仕方がない。意味のある流通をさせないと。
俺の仕事のギャラは高いけど、それは仕事への評価基準だから安くする気はない。その代わり余っている分は必要としている人に、喜んで捨てるよ。
この前もクラウドファンディングをやっている映画制作チームから、「制作費をどうやって集めたらいいか」という相談をされた。これも制作費という、映画を作るためのチケットを集めるのが目的だ。「俺の相談は無料じゃねえからな」というのは仕事の評価。でも相談が終わってからもらったギャラは全部、その場でクラウドファンドへ渡した。
これはお金がただ一回転したってことじゃなく、俺は仕事をしたし、そのお金は制作費として彼らに渡したかった。決して偉いことでも無意味な循環でもないんだよね。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。