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いろいろな暴露~ジブリ私記10


 ジブリが発行している雑誌(フリーペーパー)『熱風』に一年間連載をもたせてもらってからもう3年たっても、まったく反響ないまま終わったものだ。あれはどこかで書籍化しておいてもらいたい気持ちはあったものの、どこも引き受けてはくれないだろう。事の成り行きで昔のジブリの給与明細の画像をネット上でさらしてしまった。あれにはもちろん理由があるのだけれど、それは今はおいておいて、ジブリに対してあんな真似をしてしまった無謀な男の書いた文章なんて、ジブリがこわくてどこも出版を引き受けないだろう。
 しかし、出版より先に明細の事件が先に来て、よかったとも言える。給与明細の名誉挽回のつもりで、このジブリの回想記を書こうと思って、いざ書き始めたら、そののっけから『ジブリの労働について書くのだ』というフレーズが自然に出てしまった。
 もし『熱風』の連載が書籍化していたら、出版社に申し訳なくて、この回想記を書くことはなかっただろう。書籍化か回想記か、どちらかとれと言われたら、回想記をとるんでしょうね。アニメ論考は一度世に出たからある意味もう済んだものですし、noteやtogetterでまた違う角度から論考のエッセンスの披露はできてはいるのだし(負けおしみ)。
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 そのジブリの終焉も近いだろう。核となる人物たちも高齢だ。彼らが亡くなったあとは、既存コンテンツを延々とリサイクルしつつ、マイナーチェンジを施すだけになるだろう。
 ジブリ作品を前にしてファンが童心をもちつづけることは自由だ。しかしその童心の発露がなんらかの「作為」によって喚起されつづけているのも確かで、それもまた「ジブリの思惑」のひとつだったりする。案外そのジブリの思惑は、宮崎駿が同意しているのか、感知しているのか、というと心もとない。

「もう、そういう面倒くさいことは、勝手にやって。任せるから」

 『もののけ姫』が、監督本来の意向だと『アシタカせっ記』というタイトルで公開するつもりだったのはよく知られた事実だ。興行面での配慮から製作側が勝手にタイトルを変更して、いまのタイトルになったのも広く知られる。
 そういう「本人の感知しないままに何かが進む」ことは、ジブリの歴史を知っていればいくらでもわかってくることで、それを推し進めた張本人みずからがそれを様々な媒体で公言している。だから、いまも「そういうこと」が進行していると見て、間違いはないだろう。
 何か理想的にシステマチックな決定プロセスがあって「ジブリのいちいち」が決定されるわけでなく、たとえば会社や家庭で「いちいちのこと」がきわめて人間臭く、プレーヤー(社員・家族)たちの個性こみで決まっているという当り前のことが、ジブリでも常に起こっている。
 それは文句なしに優れたクリエイターたちの、間違いのない手振り身振りで完成したものでは、全然ない。それはジブリにわずかに籍を置いていた人間(ぼく)として保証しよう。
 きわめて人間臭い創造的営みのからみあいからなる、きわめてアニメーション固有の手法によって純度の高い表現行為が実現されている、それがジブリアニメの真実だ。
 ぼくは大事なことを書き忘れがちだから、いまここで忘れないうちに書いておくと、これから書き継がれるこのジブリの回想記は、「人間像」の面と「表現手段(=作品)」の面の2つの側面でジブリを紐といていくだろう。
 ぼくはこの2面でジブリになんとなくおおっているベールをはがしていく。それを追って読んでくださるひとにとってその読書体験は、ジブリを前にして童心に帰ったり、永遠に神格化しようとするその心性を、こなごなに砕いていくだろう。大事にしていたピュアなハートは一度泥沼につかってもらい、それからゆっくりと立ち上がったとき、あなたははじめて大人として、成熟した気持ちで、ジブリに接する心構えができているだろう。
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 ちょっと抽象論が過ぎた。ごくごく些末なスタジオという現場のひとコマを描いて今日は終わろう。
 『もののけ姫』は難解な作品だとよく言われる。何度も見直して、考察を独自に深めるひとも多い。
 ただ残念なことに、あの作品のひとつひとつのパーツは別に「正解」でもなんでもない。完成品としてパッケージされたなら、確かにそのアングルでしか作品を観れない。
 しかし例えば、あの作品でエボシはなぜ生き延びたのだろうか。説明できるひとは、それに対して何を言うのだろうか。
 残念なことにぼくは、それらの解答例を聞いても説得されないだろう。なぜならコンテを描き進めながら、その二択(生か死か)に延々と悩んでいる本人の姿をずっと見ながら、ぼくは自分の仕事をしていたからだ。
 本人は自分で悩みを抱えきれずに周囲のメインスタッフに問いかけていた。生か死かと。意見を聞きながらもまだ決めかねていた。
 聞いて回るメインスタッフとちょうど同じ物理的距離圏内に、ぼくはいた。ぼくはサードの演出助手という立場で仕事をしていた。
 しかし本人はぼくに決して意見を求めなかった。ぼくが新入社員として演出助手の三番手として配属されて半年強、すでに何度かのやりとりで、こいつ(ぼく)にだけは意見を聞いてはいけない、という判断が本人には働いているのがぼくには痛いほどわかった。
 ちなみにぼくがもし本人に問われたなら「エボシの死」一択だった。
 あれは「カリスマに率いられた共同体(タタラ場)の未来を占う選択」だった。その選択は共同体が「代替わり」したとき、どう存続できるかという問いでもあった。本人の意識にあって、このスタジオに自分がいなくなったとき、どうなるのか?という問いと絵コンテの選択は相即だったはずだ。
 人はいつか死ぬ。しかしカリスマとして率いてきた自分が死んだあと、このスタジオ/タタラ場はいったいどうなる?
 そういう問いであったことは確かだ。
 そして現在パッケージ化された作品では、カリスマ(エボシ)は痛手を負いつつも死ななかった。それはつまり監督のいなくなったスタジオはどう再生するか、それを思考放棄した選択でもあったはずだ。
 実際、『もののけ姫』のラストがそうであったように、痛手に負っては何度も引退の素振りを見せつつ、結局は復帰してしまったことか。
 自分が退いたあとの「共同体の再生」を考え詰めることができなかったつけ。
 それは『もののけ姫』の絵コンテのとき、すでに現れていた。
 本人を責めるつもりはない。
 完全保存版としてパッケージ化されているはずの『もののけ姫』の、ほんのひとかけらだが、綻びを開いてみてみただけだ。

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