ケルト神話の英雄クー・フラン(クー・フーリン)の名前について
アイルランド神話(ケルト神話の一種)は英雄クー・フラン(慣用読みクー・フーリン)を抜きにしては語れない。
数々の武功と伝説に彩られるが、本来は無益な戦いを望まず、人々を守るため、あるいは義侠心によって戦場に赴く半神の戦士である。
彼は少年時代に鍛冶師クラン(Culann)の屋敷を訪れた際、その番犬を誤って殺してしまい、嘆き悲しむクランを前に「番犬の子を育てること」「育つ日まで自分が番犬の代わりとなること」を誓う。
そのため彼は"クランの番犬"を意味するクー・フラン(Cú Chulainn)と呼ばれるようになった。
(なおcú「犬」を名に持つアイルランド戦士は珍しくない)。
このあたりの話は知っている人も多いだろう。
しかしケルト神話の知名度が次第に上がってきたとはいえ、言語の認知度はまだまだ低い。今回はこの英雄の名について解説していきたい。
戦いに臨むクー・フラン (Leyendecker, 1911, PDM)
ケルト諸語の地理・系統的位置
ヨーロッパに分布する言語の多くは印欧語族に分類される。
印欧語族についてはこのブログで何度も言及しているが、今から数千年前(一説には約5000~6000年前頃)に存在したといわれる印欧祖語に起源を持ち、そこから枝分かれして生じたと想定される言語群を指す。
現代でも主にインドからヨーロッパにかけて広く分布しており、アイルランド語も英語も印欧祖語の子孫に当たる。
語族とはいわば言語の家系のようなものといってよい。
印欧語族はさらに内部的な親疎関係によっていくつかのグループに分けられる。
一般的に知名度が高い「ヨーロッパの言語」の多くはイタリック語派(イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・フランス語など)やゲルマン語派(英語・ドイツ語など)という下位グループに属す。
アイルランド語はそれらと異なりケルト語派という分派に含まれる。
印欧語族簡易系統図
☆印欧祖語
○イタリック語派
・ラテン語
→イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語など
○ケルト語派
・ケルティベーリア語
・レポント語
・ガッリア語
・ガラティア語
・ブリタンニア語 *kʷ>p
→ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語など
・ゲール語 *kʷ(>k)
・古アイルランド語
→アイルランド語
→スコットランドゲール語
→マン島語
○ゲルマン語派
(北語群)
・古ノルド語
→アイスランド語、ノルウェー語、デンマーク語、スウェーデン語など
(西語群)
・古英語
→英語
・古高地ドイツ語
→ドイツ語
・古オランダ語
→オランダ語など
言語は一部のみ例示。他にもギリシャ語派(ギリシャ語)、インド・イラン語派(サンスクリット語やペルシア語など)を始め様々なグループが存在。
ケルト語派はイタリック語派やゲルマン語派と共にヨーロッパ西方に分布しているグループで、現代語としてはアイルランド語、スコットランドゲール語、ウェールズ語などが該当するが、話者数や勢力圏はイタリック・ゲルマン語派に遠く及ばない。
古代には今より遥かに広い地域で話されていたようで、ケルト語起源の地名(イタリア語のMilano「ミラノ」や英語のLondon「ロンドン」など。OED参照)などからもそれが裏付けられているのだが、次第に他の言語に押され、ヨーロッパ北西の一角に残存するのみとなった。
日本での知名度の低さもそれに起因しているのだろう(ちなみにアイルランド語とアイルランド英語は別物なので注意)。
所属言語
ケルト語にもいろいろな言語がある。
古代にはイベリア半島のケルティベーリア語、イタリア北辺のレポント語、現フランス・ベルギーを中心とした地域のガッリア語などが知られていたが、中世以降に存続したのはブリタンニア諸島などの島嶼地域の言語のみとされる(注意点後述)。
島嶼ケルト語としてはゲール諸語(アイルランド語、スコットランドゲール語、マン島語)、ブリソニック諸語(ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語)などがあり、このうちブルトン語はフランスのブルターニュ地方に分布するが、後代に島嶼地域から再導入されたことで知られる。
ブリソニック諸語は古代のガッリア語の方言であるブリタンニア語の末裔ともいわれているので、その場合、大陸のケルト語も厳密には滅んでいないともいえる。
またブルトン語の方言ともされるヴァンヌ語はアクセントの位置が最終音節にあり(ブルトン語ではウェールズ語と同じく基本的に最後から2番目)、そうした間接的な根拠からむしろガッリア語の直接の末裔とする解釈もある(マルティネ2003, pp.108-109)。
内部的な系統関係については議論が絶えないが今回は省略する。
特徴もなるべく簡単に説明しよう。
大陸地域のケルト語直接資料は前7世紀頃から見つかるのに対し、アイルランドなどの島嶼地域の直接資料は後4世紀頃からのものしか存在せず、それも分析の困難さに繋がっている。
古アイルランド語文献で最も古いのは後4世紀頃から見つかるオガム文字碑文だが、人名や親族語彙などしか出てこないので、本格的な資料の登場は後7~9世紀頃からとなっている。
ケルト語起源の外来語
地名についてはいずれ別枠で詳しく述べるとして、英語に入ったケルト語由来の外来語として特に有名なのはcar「車」、down「下に」、iron「鉄」、rich「豊かな」、town「町」などである(OED, s.v.)。
具体的にどのケルト語から来たかを知るのはなかなか難しいが、上述の語彙は古代の段階で入ったと推定されているので、古アイルランド語(後4世紀~)などの新しい段階の言語ではなく、ケルト祖語(共通ケルト語)やガッリア語などの古代ケルト語などから導入されたものと思われる。
新しい段階で輸入された語としては「命の水」を表すスコットランドゲール語のuisge-beatha [ˈɯʃkʲə ˈpɛhə] (ウシュキェ・ペハ)に起源を持つwhiskey「ウィスキー」が有名である(OED, s.v.など)
この語は現代アイルランド語のuisce beatha [ˈɪʃkʲə ˈbʲahə] (イシュキェ・ビャハ)に対応し、共に古アイルランド語ではuisce bethad /ˈusʲkʲe ˈbʲeθɘð/ (ウシュキェ・ビェサズ)に由来し、さらにラテン語のaqua vītae (アクァ・ウィータエ)「命の水」を翻訳借用語句として知られる(aqua「水」vītae「命の」)。
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