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オリュンピア大祭(古代オリンピック)に女性の優勝者がいた!―「スパルターのキュニスカーの優勝碑文」(古代ギリシャ語ドーリス方言資料)解説―

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〜9月22日 14:00


戦車競走で優勝した女性

スパルターの王はみな私にとって父祖と兄弟。
駿馬の引く戦車の主、勝利者クニスカー(キュニスカー)がこの像を建てた。
私こそがヘッラス世界で唯一この優勝冠を手にした女である。

『キュニスカーの優勝碑』

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 (※本文約10000文字、残りの約20000文字は参考文献一覧)。

オリュンピア祭

 古代ギリシャにオリュンピア祭(Ὀλύμπια)という競技会があった。
 4年に1度、エーリス地方の都市オリュンピアー(Ὀλυμπίᾱ)で開かれていたゼウス神の巨大祭典で、ギリシャ世界各地から一流の選手が集い、様々な運動競技の腕を競ったことが伝えられている。詩や絵画のような芸術の展覧会も自然発生的に行われていたようである。
 慣用的に古代オリンピックとも呼ばれ、その歴史は記録に残るだけでも前776年から後369年までの1100年間以上に及ぶ。
 現代オリンピックはこれを模して19世紀に始まった別のイベントである。

オリュンピアーの練習場遺跡

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GR-olympia-palaestra.jpg

 大会の参加者は基本的にヘッレーネス(ギリシャ人)を祖先に持つ自由人の男性に限られていたというのが通説である。
 (ローマ人のようにギリシャ人と共通の祖先を持つと主張し認められて参加した異民族もいたが、ヘッレーネスの祭典という主旨は不変だった)。

 しかし実は前385年頃、このオリュンピア祭で優勝者として表彰された女性がいたと聞いたらあなたは驚くだろうか。
 しかも神話伝説や噂の類ではなく、優勝を讃えた碑文の実物が現存し、後年の『ギリシャ詞華集』(Anth. Gr. 13.16)にも収録され、さらには後2世紀の歴史家パウサニアースの『ギリシャ案内記』(Paus. 5.12.5; 6.1.6)でも言及されているのである。


スパルターの姫キュニスカー

 彼女の名はクニスカー/キュニスカー(Κυνίσκᾱ)。
 スパルター王アルキダーモス2世(Ἀρχίδᾱμος)の娘であり、エントリー種目は戦車競走だった。
 戦車(ἅρμα)とは太古のユーラシア各地で使われていた戦闘用馬車(チャリオット)のことで、歴史時代のギリシャではすでに兵器としては廃れて久しかったが、競技の舞台で命脈を保っていた。
 そしてこの種目では御者ではなく戦車の所有者が優勝者と認定される伝統があり、キュニスカーは持ち主として優勝冠を手にしたのである。

戦車競走を描いたレリーフ
ローマ時代の後1世紀頃のもの。

 生年は前440年頃(少なくとも父が没した前427年以前)のようで、その前半生は古代ギリシャの世界大戦ともいうべきペロポンネーソス戦争の時代(前431~前404年)と重なっている。
 この戦争でスパルターを盟主とするペロポンネーソス同盟はアテーナイを筆頭とするデーロス同盟に勝利したが、その覇権も長くは続かなかった。
 オリュンピア祭での優勝(前390~前380年頃)は大戦後の出来事である。
 そんな激動の時代に生きた彼女が何を思い戦車に情熱を注いでいたのか、その一端を伝えてくれるのもこうした碑文の価値のひとつだろう。


ドーリス方言の資料として

 さらに注目すべきは、このときの記念碑文が古代ギリシャ語の方言資料として言語学的に高い価値を持っていることである。
 古代ギリシャ語には数多の方言があり、最も有名なのはアテーナイなどに分布していたアッティカ方言だが、キュニスカーの優勝碑文はスパルターなどで使われていたドーリス方言(の一種ラコーニアー方言)で記されており、当時の言語状況を伝える1枚としても重要である。

 彼女の名前も故郷のドーリス方言では「クニスカー」、アテーナイのアッティカ方言での本来語想定形であれば「キュニスケー」(ᾱ > η)、アッティカ方言におけるドーリス系外来語人名なら「キュニスカー」といった発音になるが、最後の形が有名であるため基本的にそれを踏襲する。
 (υの発音はドーリス方言では/u/、アッティカ方言では/y/)。

 都市国家時代(前8世紀以降)の古代ギリシャ語の諸方言はドーリス方言群、アイオリス方言群、アルカディアー・キュプロス方言群、アッティカ・イオーニアー方言群の4グループに分けられる。

古代ギリシャ語の方言地図
分類の解釈や分布圏を定説に合わせて一部修正。
各グループの主な所属方言は次の通り。
1や3の混交体のパンピューリアー方言は通例この4分類には含めない。
ただし3に含める解釈もある。

1. ドーリス・北西ギリシャ方言群(Dor.)
 クレーター方言、ラコーニアー方言、コリントス方言、エーリス方言

2. アイオリス方言群(Aeol.)
 テッサリアー方言、ボイオーティアー方言、レスボス方言

3. アルカディアー・キュプロス方言群(Arc-Cypr.)
 アルカディアー方言、キュプロス方言

4. アッティカ・イオーニアー方言群(Att-Ion.)
 アッティカ方言、西/中央/東イオーニアー方言

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AncientGreekDialects_(Woodard)_en.svg

 この中で古典期(前5~4世紀頃)に最も有力だったのがアテーナイを中心に分布していたアッティカ方言、次いでアシアー地方中西部(本土東の海を越えた先)などの東イオーニアー方言である。
 前4世紀終盤になるとこのアッティカ方言をベースにイオーニアー方言の要素を取り入れた共通語コイネーが成立し急速に普及していった。
 しかしギリシャ世界には他にも色彩豊かな方言が多く息づいていた。

 特にドーリス方言群(または「ドーリス・北西ギリシャ方言群」「西ギリシャ方言群」)はアッティカ・イオーニアー方言群(または単に「イオーニアー方言群」)に次いで有力で、多数の話者人口を擁し、コイネー成立後も長期に渡って広く存続した。
 文学的には合唱隊歌の伝統を持つグループで、アッティカ文学でも合唱部分には一部ドーリス方言要素が使われた。
 ペロポンネーソス半島(本土南隣)南東部・ラコーニアー地方の都市スパルターの言葉もこのドーリス方言の一種ラコーニアー方言である。

 重要な違いとして、アッティカ方言やイオーニアー方言ではギリシャ祖語の*āが前9世紀以前に[aː]から[æː]に変化し、さらに*ēに合流していったが(標準表記η)、ドーリス方言(を含む他の方言群)ではᾱ [aː]が保たれていることが挙げられる("Doric ᾱ")。
 この点を含めドーリス方言群は全体的にアッティカ・イオーニアー方言群よりも古風な特徴を多く示し、ラテン語とギリシャ語の系統関係の分析上も重要な役割を果たしている。

 なお補足として*ā起源の[æː]はイオーニアー方言では全面的に*ēへ合流していったが、アッティカ方言ではε, ι, ρの直後ではᾱに回帰した。
 そのため通常位置ではηに至っているのに対し、一部環境では結果としてドーリス方言と同じくᾱとして現れる。
 加えて中央イオーニアー方言では*ā由来の[æː]と本来の*ēが相対的に遅くまで区別されていたことが知られている。
 またアッティカ・イオーニアー方言群全体の共通現象として、この*ā > ηの推移完了後の時代に生じたᾱはηにならない(e.g. 複数対格*-ans > -ᾱς)。


ラテン語との系統比較の鍵

 ギリシャ語はラテン語、英語、サンスクリット語と同じく印欧語族という系統グループに属し、印欧祖語という共通祖先から枝分かれして誕生した。

印欧語族簡易系統図と基数詞対応表(アニマの部屋配信資料)
アニマ(@anima_divina)制作資料。
古代ギリシャ語の箇所はアッティカ方言の形。

 そのため祖語から共通して受け継がれた語彙や文法形式も多数に及ぶのだが、アッティカ方言は改新が活発なため、直接見比べてもラテン語との繋がりが簡単には実感できないことも少なくない。
 しかしドーリス方言は古風な特徴も多く、方言の存続状況や資料数にも比較的恵まれているため、アッティカ方言とラテン語の架け橋となる可能性を秘めているのである。

 たとえば印欧祖語には*bʰeh₂meh₂ > *bʰāmā「噂」という語があり、ラテン語にはfāma「ファーマ」、アッティカ方言やイオーニアー方言にはφήμη「ペーメー」という発音で継承されているが、受ける印象はかなり違う。
 しかしドーリス方言の形ならφᾱ́μᾱ「パーマー」であり、ラテン語形との語源関係が一目瞭然である。
 以上を踏まえればドーリス碑文鑑賞の味わいはさらに深まることだろう。

 (※続きの本文は約7000文字、残りの約20000文字は参考文献一覧)。


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