この世界には霊という存在はいるのか、いないのか
こんにちは、アンジーです。
前回の投稿でお話しさせていただきましたが、私は五感以外の感知能力を持っています。
この第五感以外の感知能力は、特殊な人だけが持っているものでもないと思います。
これから書く内容は、あくまでも、この世にいる一人の意見として受け入れていただきたいと思います。
誰しも気付くか気付かないかの紙一重の空間にいるものとします。
その中で理屈では説明しがたい事が起こると、実は五感以外の何かなのではないかと実感が湧くものです。
自分の人生を自分自身がつくり上げていく人。
何かに影響されて心が動き、より人生を全うできる人。
世の中は全ての存在に対して、対等の価値があるものだと思います。その人が人生を全うするのに必要なものが自身が一番よく分かり、自身が一番動けるものです。
「知りなさい。聞きなさい。正しい行いをしなさい。信じなさい。感謝しなさい。」
私は幼少期からこの能力をどう自分自身で受け入れていいのか分からないときに、この言葉をかけられました。その言葉を私は、信じざるを得ませんでした。
なぜなら、私には何もなかったのです。第五感だけで生きていけるこの世の中に、まわりと同じように、普通に生きたかったのです。
私は人生の窮屈さを感じながら、生きることの意味を知る事もあきらめた時期、そして楽しい事を見つけられた時に、生きることの意味を考えました。
結局は、たくさんの葛藤の中で、その中を生きることを選択したのでしょう。
だから私は今を生きて、この今という瞬間の、時の流れとともに生命の時も刻んでいるのです。
そしてある時から、全てのことを受け入れることができるようになりました。
全てのことに対して執着せずに、正しいか間違いかという問題ではなく、それぞれの人によって変わる。
次に、この投稿のタイトルでもある、”この世界には霊という存在はいるのか、いないのか”ということについてお話ししたいと思います。
例えば、Aさんは霊が見える。Bさんは霊が見えない。
どちらを信じますか?
私も最初はこのような疑問を持っていました。なぜ、見える人もいるのに見えない人もいるんだろう。どちらを信じればいいんだろう。どちらが正解なんだろう。
でも結局は、今現在この世のこの瞬間では、きっと証明することができないのでしょう。
この質問に対して、今の私までたくさんのものを見てきて思ったことがあります。
それは…
そのものが見えるというのならば、いるのであろう。
そのものが見えないというのならば、いないのであろう。
人間は見えないもの、認識できないものに怖がり、怯える。
例えば、家の前にある道の、ここの場所には黒い服装をした女の人がいて西をずっと見ているよ。前を通ると、通った人の事をずっと見ているよ。家までずっとついてくるよ。朝四時ころに元居た場所に戻るよ。
このような事を事前に知っていたら、その話自体が聞いていて怖いと思うかもしれないが、避けようとも逃げようとも立ち向かおうとも誰かと一緒に通ろうとも、事前に心の準備というものができる。
そうなると、目には見えない部分ではあるが、心の方も多少の恐怖からは半減されるであろう。
見えないのならその人の世界には存在しない。それは人間の能力でできる、限界があるその世界の話である。
見える人にとっては実際に感じたり、見たり、いると認識しているのだからいるのである。
それを、見えない人が、いないということもなくてもいいことであり、逆に見える人が、いるということもなくてもいい。
自分の世界が自分にとっては全てということは間違いではない。自分以外の人間もその自分の世界に存在しているが、相手にとってみればそれがそのまま当てはまるのであろう。
相手を自分の人生に巻き込むのではなく、相手の人生も自分の人生と同じ価値のあるものであるために、その部分に関してはお互いに敬い合う事が、その行為自体も対等な立場だからこそする必要があると考える。
この事を踏まえて、これから私の記事を読むことと、読まないことは、どちらを選択しても同じ価値のある道だと思い、尊重します。
もしも、私の投稿を読んでいただける機会があれば、深く感謝するとともに、あなたにとってより良い人生を全うできる手助けになればと思っています。
読んでいただき、ありがとうございます。
これからもいろんな視点から見た考え方を記事にして更新していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう♪