「わたしーあなた」と「わたしーそれ」
宮台真司さんと大竹まことさんが、ブーバーの「我ー汝」「我ーそれ」のことを話されていました。人間関係を「わたしーあなた」とするか、「わたしーそれ」の関係とするかで、いったい何が違ってくるのかという話です。
これね。↓
「あなた」ではなく、「それ」としてしか扱われず、また自分も人のことを「それ」としてしか扱わないというような関係性の中にいると、人は絶望的な気持ちにならざるを得ないのかも知れません。
「わたし」自身が相手の人にとっての「それ」であると思ってしまっているとしたら、「あなた」を発見することはできないということにもなるのでしょうね。
わたし=此岸であり、あなた=彼岸であるとするならば、「わたし」を発見し、「あなた」を発見するためには、空間に対する正しい知覚認識の仕方を学ばなければいけないのだと思います。関係性を理解することは空間を理解することに通じるのだと思います。
そういう意味でも、ヌーソロジー的な宇宙、空間のカタチを理解しつつ、彼岸を渡る方法論としてのスローや、原初舞踏で体験することは、空間に対する直観的な気づきを促すような意味もあるのかも知れません。
そのような超感覚的知覚の中での「あなた」との出会いは、ある意味本当に出会うということなのかも知れません。
そんなことを考えていたら、初めて原初舞踏の稽古に参加した3年前のことを思い出しました。
歩行の稽古の応用編のような感じだったと思うのですが、向かい合った人の方向にお互いにゆっくりと進み、すれ違うときに自分の最も大事な物を相手に渡し、そして相手の人はそれを受け取り、そのまま反対方向に向かって歩いて行き、最後に振り返ります。
その場合ね。相手の人は「あなた」であり、「それ」では絶対にあり得ないのだと思います。自分の最も大切な物を預けるわけですから、ある意味、魂を預け、命を託す相手と言うことですね。
その時に感じたことは、今でも忘れられない感覚だったのです。
まず、「僕のような者」の魂を、この人は受け取ってくれるのだろうか?と疑問が湧き上がりました。「僕のような者」という自己認識はどこか認めてもらえないのではないかという不安を持っているということの現われなのでしょう。
自分にはそのような価値がないのではないか、そしてこの人も僕をそのように扱うのではないか。。。
だから前に進むことが最初怖いなと感じました。かなりの勇気を出さないとその人の前に立つことはむずかしいと感じました。
しかし、互いに近づいて、なんとか受け渡せたときに、相手の人は本当に丁寧に丁寧に受け取ってくれたのを感じました。うやうやしく受け取ってもらったときに感じたことは、言葉にはできないような感謝という感覚だったかも知れません。
渡し終えて、すれ違い、反対側まで来て振り返りましたが、その時にはすべてを終えて、もう死んでも良いという感覚だったんだと思います。すべては受け渡したから、もうやり残したことはないという感じですね。
でも、受け取ってくれた方は向こう側で泣いておられて、あとで話を聞くと、「わたしなんかがこの人の大事なものを受け取ってもいいのだろうか」と思ったら、涙が止まらなくなったのだそうです。
あくまでも、模擬的な稽古なんだけど、そこで起こることは、とても赤裸々で、普段では気づけない自分の信じ込みに気づかせてくれたりします。
まずは「わたし」はけっして「それ」ではないということを、自分の中で育てないといけないのかも知れません。だからこそ、まずは自ら満つる所から始める必要があるのでしょう。そして、その先に、はじめて「あなた」が見えるのかなと思います。
なんか、そのことを思い出しました。
この写真はまさにその時の稽古のもので、全部終わって振り返ったところです。