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映画「ナミビアの砂漠」――走っても走っても、何処へも行けない私――(ネタバレ含む)
話題の映画「ナミビアの砂漠」を観た。監督は27歳の新鋭、山中瑶子。2024年無双状態の河合優実を主演に、金子大地、寛一郎、中島歩、唐田えりからが脇を固める。
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脱毛サロンで働く21歳のカナ(河合優実)。同棲中の恋人、ホンダ(寛一郎)は、まめまめしく家事をこなし、手作り料理を振る舞ってくれるが、カナにはもう一人付き合っている男、ハヤシ(金子大地)がいる。やがてカナはクリエイターのハヤシに乗り換え、一緒に暮らしはじめる。彼の引っ越し荷物(それも、スーパーや引っ越し業者から貰う段ボールではなく、フェローズみたいなお洒落ボックス)の中に、一枚のエコー写真を見つける。カナはそのことを激しく問い詰め、暴れまわるのだった。
私は私が大嫌いで、大好き
本作品のポスター・トレーラーには「私は私が大嫌いで、大好き」というキャッチコピーが付されている。しかしながら、この映画を観た後、本当にそうだろうか、と私は思った。確かに、カナは自分勝手で我儘だけれど、自己愛や自己憐憫、二人の男を弄ぶ優越感などは稀薄であるように感じたからだ。
大した趣味もないカナは、一日中煙草を吸い、スマホを弄っている。彼女がいつも眺めているのは、ナミビアの砂漠のライブ中継である。
オリックスやシマウマなどの野生動物が人工水飲み場にやって来る、ただそれだけの映像。ほぼ一日スマホを眺めながらも、カナがInstagramやX、TikTokを使うシーンは描かれない。おそらく、彼女は(2020年代を生きる若い女性でありながら)SNSから影響を受けるタイプでもないし、自ら発信するタイプでもない。承認欲求というものが、カナからは殆ど感じられないのである。
むしろ、「私は私が大嫌いで、大好き」なのは、カナを取り巻く男たちではないだろうか。ロン毛で見た目アーティスト風のホンダ(部屋着がエアリズムっぽいベージュのペラペラTシャツ)は、出張の折、断りきれずに風俗店へ行ったことをひたすら詫びる。このとき、彼は「本当にごめんなさい……でも勃たなかった」とすまなそうに話すのだが、裏を返せば「他の女では興奮しなかったんだから、別に良くない?」と自己を正当化しているだけである。また、乗り換え先のハヤシは、かつて女を中絶させたことがあり、カナの前では「そんなこと忘れてた」と話す。罪悪感は多少感じているのだろうが、結局のところ、二人の男は自分のことしか考えていない。生物学的に、絶対妊娠することのない彼らは、女の身体や立場には無頓着だ。妊娠/出産/子育てをネタにシナリオを書こうとパソコンに向かうハヤシに対し、カナは〈自分事〉でないにも拘らず、激しく怒りをぶちまける。
もっとも、ホンダとハヤシは、ものすごい「ダメンズ」ではないし、言うなれば今どきの「理解のある彼くん」だろう。ホンダはカナの日頃の世話をし、(浮気していることなど1mmも疑わず)酔いつぶれて帰宅した彼女を介抱する。服を脱がせ、ペットボトルの水を飲ませ、まるで親が子供に接するかのように、とことん彼女を甘やかす。一方ハヤシは、怪我をして車椅子生活を余儀なくされたカナに献身的に寄り添い、デートへ連れ出す。二人の男は、カナを見捨てたり虐げたりはしないものの、実際には「彼女を〈ケア〉している僕/俺」という優越感に浸っているだけではないだろうか。それを象徴するのが、ハヤシが車椅子のカナを都庁に連れ出した際、学生時代の友人で、現在は官僚の三重野に出くわす場面である。ハヤシがカナを紹介すると、三重野は「へ〜これがお前の今カノ?」という表情を浮かべる。このときの、二人の男が車椅子のカナを見下ろす構図が何ともいえなくてゾワゾワした。
また、男たちが「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と執拗に謝るのも、一見すると下手に出ているかのように思われる。しかしながら、実際のところコミュニケーションの主導権を握っているのは謝る側なのである。「ごめんなさい」と言われたら、大抵の場合は「大丈夫だよ」「気にしないよ」と答えなければならない。許してあげなければ、こちらが悪者になってしまうから。彼らはカナに頭を下げながら、無意識のうちに彼女を支配している。
先にも述べたように、「私は私が大嫌いで、大好き」なのは、カナよりもむしろ男である。「ナミビアの砂漠」で描かれるのは、男たちの無自覚な自己愛や自己憐憫であるように思われる。
どこでもいいから遠くへ行きたい
怪我から快復したカナは、またいつも通りの生活に戻るが、ある日脱毛サロンを解雇されてしまう。イライラは止まず、ハヤシとプロレスさながらの喧嘩をし、互いに怒鳴り合う。オンラインで精神科を受診するものの(中島歩演じる精神科医がめちゃくちゃ胡散臭くて思わず笑ってしまう)、大した返答は貰えない。虚無、虚無、どこまで行っても虚無。
やがてカナはカウンセリングに通いはじめ、少しずつ自分の胸の内を打ち明けるようになる。そういえば、カナが会話らしい会話をしたことがこれまでにあっただろうか。同級生が自殺したことを、何故か嬉々として話す女友達に対しても、カナはオウム返しするばかりで、殆ど聞いていない。むしろ、耳に入ってくるのは、近くの席の男子グループが喋る「ノーパンしゃぶしゃぶがどうのこうの」という話題だ。キャンプ場で同年代の女性と会ったときも、カナは自分について何も話さない。二人の恋人に対しても同様である。職場の脱毛サロンでは、接客に必要最低限のコミュニケーションをマニュアル通りこなすだけ。無機的な職場で、まるで台本でも読み上げるかのように、カナは淡々と業務を行う。
カナは自分の感情や思考を言語化することもないし、周りの他者もまた、彼女の話を聴くことがない。カウンセラーを前にして、はじめてカナは〈私〉について語り始める。彼女の口から断片的にこぼれる言葉はぎこちない。カナはカウンセラーの葉山(渋谷采郁)を食事に誘うものの、私的な交流はできないと断られる。カナが自己を開示したからといって、カウンセラーからすれば、それは仕事に過ぎない。かつて仕事とプライベートを演じ分けていたカナのように、カウンセラーの葉山もまた、〈公〉と〈私〉を棲み分けている。
唐田えりか演じる隣人、遠山が現れたあたりで、場の空気が変わったのを感じた。遠山が果たして何者なのか、詳しくは描かれない。河岸で燃える薪を見つめながら、遠山は「三年経ったら誰も思い出さなくなるし、百年経てばみんな死ぬ」と話す。火を飛び越えながら、マイク眞木の「キャンプだホイ」を歌う二人。このシーンは不思議と現実感がなく、もしかしたら遠山はカナの作り出したイマジナリーフレンドなのでは? という気さえする。カラカラに干上がったカナの心が、少しだけ癒されるような、救われるような、そんな場面だった。
なんと言っても印象深いのは、この映画のラストシーンである。元彼が冷凍したハンバーグを今彼とともに黙々と食べるカナ。「食べることは生きること!! もりもり食べて明日も頑張ってこ!!」みたいな自己肯定感は皆無だ。絶望も希望もなく、ただ日常だけが続いていく。感傷が入り込む余地もなく。
現代は出口の見えないトンネルだ。ランニングマシンのように、走っても走っても何処へも辿り着くことができない。
本作品のチラシにも書かれている通り、カナは「いじわるで、嘘つきで、暴力的」、本能のままに生きる女の子だが、完全に自由ではなく、〈何か〉に閉じ込められている。無論、この現代を生きる以上、「自由」を全うすることなど到底不可能なわけで、カナは閉塞感のなかを生存し続ける。ハヤシの母親から「素敵ね」と褒められた鼻ピアスは、カナなりのファッションであり、武装なのだろうが、見方を変えれば〈家畜〉を連想させる。ナミビアの砂漠に住む野生動物たちが人工池の水を飲むように、実際のところは、カナも〈何か〉に飼いならされているのだ。その〈何か〉は、世間や恋人、殆ど「語られない」家庭なのかもしれない。限りなく正方形に近いスタンダードサイズの画面が、現代社会やカナを取り巻く環境の閉塞感を表しているかのようだった。
前述の通り、カナは自分語りをしないヒロインだ。繰り返し述べているように自己愛や自己憐憫、承認欲求も殆ど感じさせないし、自己肯定感/否定感も欠落しているように見える。さらに、カナは他者の言葉も必要としていない。「映画なんか観て何になるんだよ」という呟きが、それを顕著に示している。自己を語らない/語り得ないヒロインを、カメラは執拗に追いかけ回す。彼女の息遣いや皮膚の温度をも捉えるかのように、ひたすら観察し続ける。映画「ナミビアの砂漠」は、〈私〉を語らない、〈現在〉を生存する女性の生態を追った、生々しいポートレートである。