『察してよ』(桃萌)

よく耳にする言葉。

「察してよ」「空気読んでよ」
それは察せなかった者への怒りであり、
空気を読めなかった者への咎めである。

それを聞くたび、ごめんねって、一応思う。
申し訳なさそうな顔で、下を向いてみたりもする。

でも、「察してよ」って、すごく理不尽だ。


察することができるのは、自身の主観による常識や物事の範疇である。

その「主観」は、私の知識とか経験とかから作られた、オリジナリティ溢れる「主観」だ。

その「主観」によって、誰かから受け取ったふにゃふにゃの情報を種類によってカテゴライズしたり、名前によってラベリングしたりすることができるのだ。

つまり「主観」とは、情報などを形容するウツワのようなものだと思う。


そして「私のウツワ」と「誰かのウツワ」が違うものならば、「私」と「誰か」では、同じものだって違うように認識されるだろう。

ふにゃふにゃの曖昧な情報は、ウツワが少しでも違えば、全く別のものとして形容されてしまうだろう。


私の中にあるオリジナルのウツワは、誰かのウツワと完全に一致しているのだろうか?

あなたと私、または第三者。

みんな違う知識を持ち、違う経験をした人間。

だから、みんな違った「ウツワ」を持つ。 

みんな違うウツワを持つのだから、それを全て理解できる人間なんてどこにも存在しない。

それならば「察してよ」で不一致が起こるのは当たり前なのだ。


どれほど常識でも、どれほど当たり前でも。

それはあなたの頭の中での「常識」であり
あなたの頭の中での「当たり前」でしかないのだ。


だから、「察して」と願うのは、
あなたの、とんでもない、並外れた傲慢なのだ。



私たちには、「言葉」という共通の道具がある。

長い文明を生きてきた、便利なツールだ。

人間だけが使える、ハイスペックなスキルでもある。

届かぬ祈りにならないように、
傲慢な願いにならないように、

意図せぬ衝突を避けるために。


私たちは人間なのだから、

「察してよ」ではなく
「言葉」を使うべきなのではないか。


(桃萌)

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