安克昌『心の傷を癒すということ』 中井久夫『災害がほんとうに襲った時』

1995年1月17日におきた阪神淡路大震災について書かれた本。2冊を並べるのは、当時、神戸大学の精神科で教授で、いわば指揮官として振る舞った中井久夫氏と、現場隊長であった医局長の安克昌氏、二人の視点でひとつの出来事をみると、一層深く読めると思うから。ぜひ一緒に読んでいただきたい。

阪神淡路大震災が起きた年、私は高校3年生で受験を直前に控えていた。受験先は関東方面と決めており、新幹線が不通となったため、慌てて飛行機のチケットを取り直すことになった。(受験の時の交通や宿泊先の予約等一切自分で行ったが、この時の飛行機のチケットだけは母親に取ってもらったことを記憶している。)
何度かの往復の際、一度だけ、飛行機が満席で取れず、新幹線不通区間の一部を再開したばかりの在来線に乗り換えて、神戸を通過した。車窓から見た焼け焦げた街の風景を、なにごともなかったかのように意識的に振る舞おうとする乗客たちで不思議に静まる車内から眺めていた。

中井久夫『災害がほんとうに襲った時』(みすず書房、2011年)
東日本大震災を受けて、出版し直された本だという。中井久夫の指揮官としての状況判断の的確さと卓見に舌を巻く記述が随所に見られる。精神科医らしい冷静な観察記述の一方、神戸という街について触れられるやや饒舌な記述も興味深い。阪神淡路大震災当時の日本社会の記述の箇所については、日本社会への信頼と希望が感じられ、いま現在と隔世の感がある。私の世代は、自分たちが若い頃の日本はこうであったと共感するが、私よりも下の世代には新鮮であるかもしれない。かつて、豊かであった頃の日本は、このような鷹揚な態度であることが一般的であったし、ゆるされたのだ。本文中、軍事と重ねて災害対応について書かれる箇所がいくつかあり、これはまさにそのとおりだと思う。それが好ましかろうが、好ましくなかろうが、指揮系統のこと、ロジスティックスのこと、後方支援のこと、発災直後の救援活動は軍事活動と似通っているのだろうと思う。最後のあたりに、安克昌氏を含めて、震災直後に身を粉にして支援活動に活躍した人たちがみな早くに亡くなったと書かれてあるのを見て、私もそうなるのかもしれない、とやや苦笑いした。

安克昌『心の傷を癒すということ』(角川ソフィア文庫)
当時、神戸大学精神科の医局長だった安氏は、生年を見ると発災時35歳。私が東日本大震災発災時に35歳を迎える直前だったから、被災時にはほぼ同い年だったことになる。震災直後から、精神科医として現場を走り回った安氏と、震災から半年近く経って少しずつ動き始めたスロースターターの私とで動き方も立場もまったく違うのだが、別の災害の現場で動いた同年代の人がどのように感じたのかといった点を含めて、とても興味深く読んだ。安氏が現場の活動をしながら感じたさまざまなこと、地元の人間でありながら支援者をするという立場から思うことは、私が感じてきたことと多く共通する。多くの人が入れ替わり立ち替わりやってくる。だが「地元の人はずっとここにいる」。うちの人、外の人、と区別をすると嫌がられることも多いし、また被災地への心理的距離感を広げてしまうため、むやみに使いたくはないのだが、これは決定的な差だ。その影響から逃れられない人、その後もずっとそこに住み続ける人と、やってきて自由に立ち去ることができる人とは、出来事の感じ方も引き受けることとに大きな差がある。また、「支援をすることが自立を妨げる」という通説に対する反論もまったく共感するところだ。(中井氏の上記の本にも同じような記述がある。)

被災者は支援と受けとることで「得をした」とは思っていない。むしろ、必要なものを援助してもらわなくてはならないことは「屈辱」なのである。しかも、援助に対しては感謝すべきであるという暗黙の要請があるために、この屈辱感は公には表現することはできない。
自立にはそれぞれのペースがある。はやく立ち直れる人もいるが、なかなか思うようにもとの生活に戻れない人もいる。それを、援助しすぎたから依存心が強くなって自立できないのだ、と決めつけてよいものだろうか。

ほとんどすべて(と言ってもいいと思う)の被災者は、自分の自立した生活にプライドを持っており、人から情けを施されることを好まない。だが、生活がうまくまわらず、助言やなんらかの手助けを必要とする状況に置かれていることもある。ペースを取り戻すには、個人差もある。それを他人が、遅いとか早いとか評価するべきではないだろう。

一方、阪神淡路のときには、一年後には震災後の復興祭は消え失せたように記述されているので、少なくとも三年は続いた東日本大震災がいかに規模がおおきかったかをあらためて感じさせられる。(中井氏の記述でも三ヶ月後にはボランティアの波がきれいに引いたとあったので、ずいぶん早いと驚かされた。)

宮地尚子氏の『環状島ートラウマの地政学』を読んだ際にも感じたのだが、私が震災後行なってきたことは、トラウマ対応と非常に似通っている。というよりも、むしろそのものであったようにも思える。〈心のケア〉に用いられる「アクティブ・リスニング」という技術があるという。

・「聞き役」に徹する
・話の主導権をとらずに相手のペースに委ねる
・話を引き出すよう、相槌を打ったり質問を向ける
・事実→考え→感情の順が話しやすい
・善悪の判断や批評はしない
・相手の感情を理解し、共感する
・ニーズを読み取る
・安心させ、サポートする

自分が震災後に行ってきた活動は、ほぼこれらの条件に沿っている。「アクティブ・リスニング」の方法論を事前に知っていたわけではなく、どうすればうまくいくかを考え考えしていたら、自然とこのスタイルになっていた。放射能測定を通じて、なので、どうしても放射能の科学的知識を「教える」という形になりそうなものだが、私たちは、ほとんど「教える」ことをしなかった。相手のニーズは生活の安定を取り戻すことなのだから、生活の安定を取り戻せるだけの情報があればいい。仮にまちがった判断であったとしても、それが本人やまわりの安全や生命を損なうものでないのなら、それはそれで構わない。(さらに言えば、それが安全を損なうものであったとしても、本人が決然と判断してしまったのであれば、まわりの支援者に過ぎない人間には止めようがないのだ。それはそれとして尊重すべきだと私は考えている。) 大切なのは、本人が安心感を持って落ち着いて暮らせるようになることだ。ここがおそらくは、科学を啓蒙しようとする人たちと最終的に、そして、決定的にすれ違ったところなのだろうと思う。

本書の最後にあるこの箇所は、いかにも私が書きそうな文章である。

それは、〈心の傷〉を見て見ないふりをして、我慢して前進することではないだろう。多数派の論理で押しまくり、復興の波に乗れない、”被災の当事者”でありつづけている人たちを忘れ去ることではないはずである。
世界は心的外傷に満ちている。”心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである。

実際、同じ主旨の文章は私も書いてきた。心の問題を精神科や心理学に外注してしまい、まるで陰りなど存在しないかのように社会全体を明るく見せかけることが、住みよい社会であるとは思えない。パンデミックの世界でも、多くの人たちが心の傷をかかえることになるだろう。この先の途方もなく混迷する時代に、心の傷を互いにいたわりあい、お互いの弱さを認め、ゆるしあえるような、そんな社会であることを願う。

(安克昌氏は震災から4年後の1999年に39歳の若さで亡くなっている。その兄である安俊弘氏は原子力工学者で福島第一原発事故時在米であったが、福島第一原子力発電所事故の後に日本で発信をされていたようだ。2016年に59歳でお亡くなりになったようだ。なにかふしぎな縁とも呼べない細いつながりを感じる。)

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