『猫を抱いて象と泳ぐ』は静かに鋭くあなたを暴いてくれるはず
澄み渡るような静かな心地と、ゾロゾロうごめく羨ましさ。
読後ひと月が経ったいま、この本のことを思うとまったく正反対の感情が湧いてくる。
『猫を抱いて象と泳ぐ』。
類まれなチェスの才能をもちながら、身を隠してしかその力を発揮できなかった青年の、ひそやかでいじらしい人生を描いた物語だ。
物語は常に静けさに包まれていた。胸が裂かれるような怒りや、許容量を超える悲しみを感じても、不思議と辺りには静かな気配があるように感じた。
それは、文章の落ち着きや流麗さ、言葉選びの上品さ、登場人物たちのどこか達観したようなパーソナリティ、チェスという理知的なモチーフ、貧しい人がちいさな幸福に巡り合う、西洋の昔話のような雰囲気など、物語をつくり上げているすべての要素から醸し出されていたように思う。
無口で人付き合いを好まないけれど、チェスを通して人とつながりながら、自分の世界を慎ましく生きたリトル・アリョーヒン。
静かに語られる、彼の静かな一生を読み終えたとき、心が驚くほど凪いでいた。
裏表紙のあらすじには、こうある。
これを読んでもどんな物語かさっぱりわからなくて、本屋の棚の前で首を傾げた。唯一意味が分かったのは最後の一文だけ。しかしわたしはその中の「静謐にして美しい」という文句にすっかり惹きつけられてしまった。
読み終えると心の中には、澄んだ空気の中、淡く光を反射する湖を前にたたずんでいるような、静かで透き通るような風景が広がっていた。
この心地を忘れたくなくて、すぐに感想を書き始めた。
心に静けさを与えてくれた感謝と、その静けさをもたらしてくれた描写の美しさへの感動、そして、この物語から学んだ孤独との向き合い方について、考えたことを書き留めようとした。
しかし書いているうちに、静かだった心が徐々に揺れ動き始めた。
リトル・アリョーヒンが羨ましい。
そう感じている自分に気づいてしまって、筆がぱったり動かなくなってしまった。
こんなに澄んだ物語の読んでなぜ、爽やかさとは正反対のドロドロとした感情を抱くのだろう。その理由をさぐっていたら、いつのまにかひと月も経っていた。考えた末に自分の中に見つけたのは、「小さくても豊かな世界」を望む気持ちだった。
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リトル・アリョーヒンの世界はとても小さい。
彼の生活は、ごく狭い世界の中で営まれている。青年となってからの彼が、家と職場以外に出向く描写はない。人間関係は家族と職場の数名ほどの広がりしかない。
チェスを指すにもテーブルの下やからくり人形に身を収めなければ本領を発揮できない。だから公の場でチェスを指すことができず、プロになって大金を稼いだり、世界の名だたる強者と対戦し、その存在を歴史に残したりすることはできなかった。
限られた生活圏で、限られた人々と関わり合いながら暮らしている。
狭い空間にこもりながらチェスを指し、その才能は知る人のみ知っている。
そんな彼はしかし、自分の世界が拡がらないことを嘆いたりしない。むしろ幼い頃から(デパートの屋上で一生を終えた<象のインディラ>のように)、小さな世界に収まることに憧れを抱いてさえいて、彼は自分が身を置くことになった小さな世界に満足している。
一方のわたしはこの半年、「自分の世界を大きくすること」に力と心を傾けてきた。そして疲れてしまった。
1年半前に安定した仕事をやめ、個人で仕事をしてみることにした。自分ができること・やりたいことを核にキャリアをつくっていきたいと試行錯誤を始めた。
それに伴って始めたことのひとつが「自分の認知度を上げること」。
実績はもちろん、身内の家業や組織などの後ろ盾もないわたしは、「自分が何者か」を自分発信で人に知ってもらう必要があった。
そのために、イベントへの参加やSNS発信、コミュニティへの所属など、人とのつながりを広げ、自分の存在を知ってもらう活動に取り組んだ。
ありがたいことに、その活動が実を結んだこともある。その出会いへの感謝は尽きない。
しかし一方で、人付き合いの難しさやしがらみの億劫さ、SNS上のなれ合いや上辺だけの互助への嫌悪感、膨らみ続ける承認欲求などに悩まされた。
自分の世界を拡げていくことで得たのは、ポジティブなものよりもネガティブなものの方が多かった。
なぜこんな思いを溜め込んでまで、自分の世界を拡げようとしているのだろう?
そう感じていたから、自らの世界を拡げようとせずとも、いま生きる世界の中で充足を感じながら生きるリトル・アリョーヒンが羨ましくなったのだと思う。
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彼はどうして、満ち足りて生きているのか。その理由は、彼には「チェス」があるからだと、わたしは思う。
リトル・アリョーヒンにチェスを教えてくれた<マスター>は、こんなことを言う。
チェスでは、自分を偽ることはできない。表面的にその場を凌ぐことはできても、その事実も含めて、盤面にはまるごと「その人自身」が表れてしまう。
わたしはチェスを指したことがないから自信はないのだけれど、この感覚は高校時代にやっていた弓道と似ているかもしれないと思った。
弓を引く姿に、その人の精神状態や人柄は表れる。どう練習してきたか、日々をどう過ごしているかが、弓を引くと分かってしまう。
弓を引いていると、自分自身と否が応でも向き合わなければならない。湧いてくる不安やおごりや欲を上手に御すために、練習の中で体に型をしみ込ませ、「いまこの瞬間」に集中する訓練をする。
自分の弱さや狡さを突き付けられるのは苦痛だけれど、受け入れたり折り合ったりがうまくいき、矢が真っすぐ飛んでいくと、ほんの少し、見える世界が広く、クリアになった感じがする。
もしわたしが弓道を通して体感したあの感覚と、<マスター>が語るチェスの真理が近いものであるならば、生身をさらして相手と対峙する緊張感は、その人の精神や人格を容赦なく磨くだろう。それに、一局の中で相手と交わされるやりとりは、通常の対話よりもずっと濃いものになるのではないだろうかと想像した。
リトル・アリョーヒンは、言葉や物理的な接触によって、人とのつながりを広げたり深めたりしない。彼はチェスを通じて、他人や自分と深く深くつながる。
他人からは物足りなく見える彼の世界は、実はとてつもなく広く深い。そしてその豊かさを知るのは、彼ひとりで構わないのである。
そんな彼の世界を象徴するのが「小さなナツメヤシのチェス盤」だ。マッチ箱に収まってしまうほどに小さく、素朴で慎ましい、しかし丁寧なつくりのチェス盤である。
大きくない。華やかでもない。目立たないから気付かれないこともある。
しかしそのチェス盤は、深い海に潜るように自身の内面を掘り下げ、対峙する相手とともに無限に広がる宇宙のような広大な世界を描くことができるのだ。
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わたしは彼のように、彼のような世界を創ることを望んでいた。しかしまったく正反対の生き方を試みていた。
だから、リトル・アリョーヒンが羨ましかった。
この本を読んでからひと月経ったいま、わたしはこう思っている。
世界の大きさは自分で決めてよく、それを豊かにする方法もまた、自分次第だ。誰かと同じでなくてよい。そう思えるようになって、疲労や無気力が薄れていった気がする。
そして、自分にいま与えられているものや、足元を支えてくれているものを、もう一度手に取ってじっくり眺め、きれいに磨いてみたいと思うようになった。
この本によってわたしは、自分の悩みと望みの本質に触れることができた気がする。
チェスが指し手に要求するように、この本はわたしに「隠し立て」を許さなかった。「読み手その人」を映し出してしまう、包み込むような静けさと核心を突く鋭いまなざしをもつ物語だった。
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