藤井風「へでもねーよ」はアップデートした藤井風の世界観が見える
藤井風の新曲のうちの1曲「へでもねーよ」はとにかく骨太でダンサブルなロックを意識したサウンド。ギタリスト DURAN氏とのコラボレーションによって今までにない曲調を狙ったことは間違いないだろう。
長い間、ピアノ弾き語りのみで世界を完結してきた藤井風。東京での一流ミュージシャンとのセッションやコラボが、いかに刺激的で創造的であるかは想像に易い。とにかくこの曲は従来の藤井風の持ち味(繊細で美しく親しみやすいポップス)からは、ひとつ抜けたように思う。練られたコード進行なのに極めて自然に聴かせる曲構成はそのままに、想像の遥か上の展開をみせる。
音楽的なことは下記の 「藤井風武道館ライブ『Fujii Kaze “NAN-NAN SHOW 2020 ” HELP EVER HURT NEVER』を観て」 にも少し書いたので、ここでは割愛する。
「へでもねーよ」は一見、アグレッシヴで荒ぶる藤井風が表れたようにも見える。が、確実に1st.アルバム「HELP EVER HURT NEVER」の思想が首尾一貫して流れている。特筆すべきは歌詞の内容。「へでもねーよ」は周囲の軋轢に対して孤軍奮闘する心情がつづられる。歪んだディストーションギターのリフは、心の葛藤を表すようでもある。
もちろん詩の内容は、全て自分の体験を元にして作っている訳では無く、キャラクターを想定してストーリーを膨らませていったフィクションもあるだろう。それでも全く想像も付かない世界のことは書けないもの。怒りをエネルギー源にするタイプではないようだが、内に秘めた情熱は人一倍熱いはずだ。
この歌詞を聴いて、すぐに思い浮かんだのは2020年8月に公開されたYouTube Artist on the Riseでの彼の発言。
これを見たとき「あぁ藤井風は何の苦労も葛藤もなくシレッと世に出てきた訳ではない」と確信を得た。出演したラジオ番組や武道館ライブでも話していたが「Struggle(もがく・あがく)」は彼を紐解くキーワードになるだろう。時には激しいくらいの情熱を持って対象に挑んでいく。言葉や表情の端々から、しっかりとした芯の強さを感じた。
まさにこの曲のように「へでもねーよ」と笑い飛ばしながら。
当然だが、わたしは藤井風ではない。でも彼と同じように小さな頃から音楽の道を志し10代をレッスン漬けで過ごした経験がある。当時のクラシック界では、まだ異端的扱いだった電子音楽やジャズもかじった。
ゴリゴリのクラシック音楽を学ぶ者が、ポピュラーミュージックへ転向していくことへの風当たりは今でも強いだろう。そういう意味では、彼の歩んできた道程や葛藤が少しは想像できるつもりだ。
藤井風の両親も、当初は「ピアニストになると思っていた」という。乗り越えなければならない壁は、少なからずあったに違いない。
藤井風が10代の頃にクラシック曲を弾く動画は、演奏を聴けば、クラシックだけやっていたわけではないことは一目瞭然だ。正統派のクラシックピアニストが見れば、邪道と言われても仕方がないだろう。
クラシックでは、まずは楽譜どおりに演奏すること、決して基本を崩さないことが第一条件だ。言い換えれば、いかにミスをせずに原曲を再現できるかで評価されていると言ってもいい。そのため、たとえ聴衆の心を掴んだとしても型に忠実で無ければ評価されない。藤井風の規格外の才能と表現力を存分に発揮するには少々、保守的で窮屈な世界だったに違いない。
Bメロは打って変わって“天に召されるような”美しい転調で、リスナーはまさに別世界・新世界に誘われる。幼少期から神童だ、天才だともてはやされてきただろうが、その陰に絶え間ない努力があったことは、演奏を聴けばわかる。
「自分次第で作り変えて、やっと手にした平穏な新世界で別世界」への執着。それが結びの「確かなもの、変わらぬものにしがみついていたい」の切ないシャウトだ。放棄と解放をテーマに、煩悩と執着を全て取っ払って生きているように見える藤井風。この曲の設定がキャラクターを想定したフィクションだとしても、彼からこんな言葉が紡ぎ出されるという事実にドキリとする。
同業者の中でもその高い音楽性が絶賛される藤井風。それでも生き馬の目を抜く音楽業界で生きていくうちに、心のどこかに「確かなものにしがみついていたい」と言う気持ちも芽生えるだろうか。藤井風だってきっと「永遠に確かなもの、変わらないもの」なんて見つからない、とわかっているだろうけれど。
追記もあります。
藤井風さんのこと、いろいろ書いてます。
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