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藤井風「青春病」は「諸行無常」を感じつつも走り続ける全ての人へのエール

良質なシティポップだけじゃない 奥深い風ワールド

「青春病」はいわゆる「中2病」と並んで、誰もが思い当たるような胸の奥をチクチク刺す青春の痛みを病(やまい)に例えた歌。サウンド的にはあえての「大衆性」を前面に打ち出しているとも言えるだろう。一見、口当たりの良いコンビニスイーツのような印象だ。さわやかなシティポップ調だが、よくよく味わってみると甘酸っぱいだけではない。詞の世界には紛れもなく“藤井風らしさ”が散りばめられている。

<音楽編> 懐かしさを感じる音作り

耳の肥えたオトナ世代なら、少し懐かしい感じがするのは80-90年代のJ-POPや洋楽POPSのエッセンスが各所に散りばめられているから。エレピのコードバッキングに被せるようにオクターブのユニゾンで入ってくるストリングスは、アシッドジャズ全盛のころのUK-POPシーンでよく使われていた手法。イントロや間奏のメロディーを奏でるシンセリードの音色もどこか聞き覚えのあるようなチープさ。ソフトに弾むヴォーカルと相まって逆に新鮮さを感じさせる。

藤井風の強みのひとつは「ジャンルを問わずどんな曲でも演奏できてしまう」ことだ。同時に発表された「へでもねーよ」は、ある意味、従来の藤井風らしさを覆すような楽曲だが、「青春病」はJ-POPの王道を突っ走る。もちろん藤井風の一番の持ち味は「次々と転調をくり返す複雑なコード進行を自然に聴かせる」ことで、この曲でも短調と長調を頻繁に行き来する。持ち前の魅力が存分に発揮されているのは言うまでもない。

「へでもねーよ」もそうだが、リスナーを楽しませてくれる“音の仕掛け”を探すのにワクワクする。「その曲で何が言いたいのかにフォーカスするのではなく、あえてぼかしていく」と語っていたのはプロデューサーでありアレンジを担当するYaffle氏。ピアノ弾き語りのデモからここまで構築するには引き出しの多さがモノを言う。Yaffle氏の人脈と手腕にもうならされる。


<歌詞編> 一貫してみられる藤井風の世界観

歌詞の世界はやはり首尾一貫している。1st.アルバム「HELP EVER HURT NEVER」に収録されている「もうええわ」に見られる執着からの「放棄と解放」だ。
さわやかな印象の「青春病」は一見、「へでもねーよ」と相反するように見える。しかし根底には共通の世界観が流れている。そして藤井風は生命力の塊か仏の権化のよう(に見える、または演出している)なのに、歌詞にはいつも死や命の終わりがにおう。常に最終形を見据えているということは、いつでも「どのように(よく)生きるか」を考えているからなのだろうか。

アーティストは常に形として残らないものを追い続けているせいか“無常”“一瞬のきらめき”“はかなさ“に敏感なような気がする。実際、「青春病」にもそういったフレーズが数多く出てくる。人生で一番美しく輝いているとされる青春時代を、あえて濁ってくすんだ「土留め(どどめ)色」と歌ってしまう言葉のセンス。「肥溜め」「どどめ色」をグルーヴィーに歌えるのは藤井風しかいないだろう。


青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
青春はどどめ色
青春にサヨナラを

青春時代なんてものはキラキラしていて、何者も寄せ付けないほど輝いているように見える。けれど、それはほんの一瞬だけ。通り過ぎて振り返ってみれば、案外くすんだ「どどめ色」で、それほど美しい時間ばかりではなかったのかもしれない。若いころの情熱なんて一過性の熱病におかされているようなものなんじゃないか。情熱なんていつか粉になって散るだけ。だからこそ、「青春にサヨナラを」。青春の思い出は、はかないからこそ美しくきらめいて見えるのだろう。

ヤメた あんなことあの日でもうヤメた
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど強くはなかった
ムリだ 絶ち切ってしまうなんてムリだ
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど弱くはなかった

君の声が 君の声が
頭かすめては焦る
こんなままじゃ こんなままじゃ
僕はここで息絶える

止まることなく走り続けてきた
本当はそんな風に思いたいだけだった
ちょっと進んでまたちょっと下がっては
気付けばもう暗い空

1番のAメロでは、さまざまなしがらみに対してもがき葛藤する様子がうかがえる。ここでいう「君の声」は藤井風の言うところの「内なる声」(ハイヤーセルフの声)であり、その声に耳をすませて自分自身を俯瞰(ふかん)しているのだろう。

「君の声」が語りかける内容は書かれていない。だが、「止まることなく走り続けてきた」藤井風に対し、少し「立ち止まって」向かうべき場所を見渡し、本当に大切なもの以外は「ムリだと思っていても絶ち切ってしまう」よう、人生の棚卸しを促しているに違いない。

青春の病に侵され                          儚いものばかり求めて                        いつの日か粉になって散るだけ                    青春はどどめ色                           青春にサヨナラを


そうか 結局は皆つながってるから
寂しいよね 苦しいよね
なんて 自分をなだめてるヒマなんて無かった

君の声が 君の声が
僕の中で叫び出す
耳すませば 耳すませば
何もかもがよみがえる
 

止まることなく走り続けてゆけ
何かが僕にいつでも急かすけど
どこへ向かって走り続けんだっけ
気付けばまた明ける空 

まるで平家物語の一節「諸行無常」を思わせるような大サビ

無常の水面が波立てば
ため息混じりの朝焼けが
いつかは消えゆく身であれば
こだわらせるな罰当たりが 


「青春病」で一番の肝にあたるこの部分(大サビ)ではビートを刻んでいたドラムがいったん静かになる。ささやくようなヴォーカルにクローズアップし、大胆な転調によってガラリと雰囲気が変わる。そして歌詞もA、Bメロのやわらかな口語調とは異なり、趣をいっそう変化させる。その内容はまるで平家物語の一節を思わせるようだ。平家物語の第一巻から「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」を抜粋、比較してみた。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

<現代語訳>
祇園精舍の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。娑羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。
~WIKIBOOKSより~

切れど切れど纏わりつく泥の渦に生きてる
この体は先も見えぬ熱を持て余してる
野ざらしにされた場所でただ漂う獣に
心奪われたことなど一度たりと無いのに

青春はある意味、病(やまい)か

藤井風は平家物語を参考にしたのだろうか。彼の歌う「青春の病(やまい)と儚さ」は、平家物語の時代から、日本人に脈々と受け継がれてきた思想に通じるものがある。

そして「切れど切れど纏わりつく泥の渦」は物質社会であり、獣(けだもの)は煩悩に食らいつく。
「野ざらしにされた場所(=世間)でただ漂っていても、心奪われた事など一度たりと無いというのに」、青春はそうはいかないから「病(やまい)」
なのだ。

青春のきらめきの中に
永遠の光を見ないで
いつの日か粉になって知るだけ
青春の儚さを⋯

青春は万能感にあふれ、きらめいていても、朝焼けが来れば消えてしまう覚めやすい春の夜の夢のようなもの。そして若さゆえどんなに勢いがあったとしても、立ち止まらずに走り続けられるわけではない。時には立ち止まって心の声に耳を澄まし、抱え込んだ不要な荷物にサヨナラしよう。だって情熱はいつまでも続くものでは無いし、ヒートアップした心や体もいつかは終わりを迎えるものだから。


生きている限りいつかはやってくる無。「風の前の塵(ちり)におなじ」と詠む平家物語と同じく、藤井風は「いつの日か粉になって知るだけ」と歌う。そして、ここで繋がるのが「へでもねーよ」の結びの歌詞「確かなもの、変わらぬものにしがみついていたい」だ。わたしたちは誰でも「それ」が得難いものだとわかっている。だからこそ、憧れてやまないものなのかもしれない。

藤井風さんのこと、いろいろ書いてます


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